「ひだまりスケッチ」を振り返る

三月末に放映終了したTVアニメ『ひだまりスケッチ』を振り返る。「ひだスケ」は、萌え四コマの原作をベースにしながら、「ぱにぽに」風の実写を取り入れた演出と、「ハルヒ」的な時系列をシャッフルする構成が特徴的な作品である。だがそれだけの説明だと、何の変哲もない日常的な話を、少し変わった演出・構成で装飾しただけだ、と思われるかもしれない。そこでより深く考察しよう。

背景

まず目立つのが実写の背景だろう。マンガのタッチを生かしたキャラクターとの齟齬、人物と背景の対立が効果を生んでいる。冷たくならない程度に人工的で疎外的な背景は、将来への期待と不安に揺れる主人公の、現実感のない現実を表す。要するにモラトリアムの心理的表現になっている。*1

ひだスケと対照的なのは、例えばジブリアニメのような生き生きとした背景だ。主人公となる人物は、強い決意を胸に秘めており、決断力と行動力を兼ね備え、その活躍の舞台としての背景は、いつも自然の環境・生命の場所として描かれる。更に機械も身体の延長として生命を与えられたかのように描かれている。

人物

脇役で目立つのは「吉野屋」だろう。校長が常に震えている衰えた老人なのに対して、吉野屋はすぐコスプレしたり露出する若い女性という風に、対極的な存在になっている。これは女子ばかりの環境*2での、過剰な女性性を一身に体現している*3

いっぽう、吉野屋の教え子の「岸」は、理想的な先輩として登場する。吉野屋が過剰なので、吉野屋にとっての後輩が、主人公の理想の先輩として丁度良い位置にいる。

また、いちばん身近な存在であるひだまり荘の大家がいつも不在なのに対して、本来作品内に登場しない立場の原作者の「うめ」は何かと出現する*4。これは吉野屋の「露出過剰」と平行している。

物語

以上を踏まえて、第5話「こころとからだ」に注目する。あらすじを要約してしまえば、主人公ゆのが風邪をひいたというだけの、特に何ということもない物語である。バラバラのエピソードを寄せ集めているように見える。しかし、細部をよく観察して輪郭を浮き彫りにしてみよう。

まず放映時期にも合わせているのだろうが、2月13日というバレンタインデーの直前の時期に設定されている。主なヒロイン四人が集まって、他の三人はチョコを「作る人」「貰う人」「食べる人」という風に役割がはっきりしているのだが、主人公は煮え切らない。

この回は、思春期の恋愛に対するモラトリアムがテーマになっている。それは「こころとからだ」の解離でもある。風邪をひいている状態というのは、身体が制御できていない状態だが、それは身体の成長を持て余す思春期自体を示している。

風邪で寝ている主人公の夢に出てくる奇妙な風景を見てみよう。色々なモチーフが登場するが、それらは思春期の退行を示している。夢の中で遅刻しそうになっているのは、現実的な意識も元になっているが、成長の遅れでもあるし、教師の吉野屋を探しているのは、成長した先の女性像だからだろう。

対して校長*5は、老人でありながら子供のような格好をしており、現実味のない男性像として登場している。石膏像として死んだ形でしか男性は現れない*6

夢の中で友達の行動は、主人公には理解できない。それだけではなく、髪の毛がうねっていたり、少し不気味なところがある。それは、同性からの攻撃性として現れているのだ。未知なる対象の異性から保護してもいるし隔離してもいるのが彼女たちであり、つまり過剰な友情なのである。

だから、風邪のエピソードとバレンタインのエピソードは、前半と後半で分離しているバラバラのエピソードではなくて、同じ心象の裏表である。同性愛的なシーンもただオマケで入っているというわけではなくて、ちょっと良い話風のラストまで、一つのまとまりをなしている。

まとめ

ふつう四コママンガは延々と日常を描くが、アニメ版ひだスケの場合、日常に対する漠然としたモラトリアム的不安がある。実写の背景はその予感・兆候を示しており、「ぱにぽに」や「ネギま」とはまた別の表現になっている。

*1:TV局によって時間差で銭湯の富士山が描かれなかった、といった事情から、背景の表現には単なる省力化の面もあるかもしれない。夏祭りのモブもボードゲームの駒のようだった。ただ、実写なら作業が楽、という程単純でもないだろう

*2:舞台となる「やまぶき高校」は男女共学だが、美術科は女子が多い

*3:ただし、自意識過剰という形で現れるので、たとえ露出していても性関係に対しては退行している

*4:最終回のタイトルは「サヨナラ…うめ先生」。また「まんがタイムきらら」の作家が提供のバックイラストを描いている

*5:放送上はこの後の体育祭の回で出てくるが、物語上の時系列で言うと、過去の記憶になっている

*6:もちろん、最初から登場人物が女子に偏っているので、登場させにくい。そうした最初の設定を含めて、表現になっている