まとめ理論

まとめブロガーになる方法

限界的ブログ

ブロガー(ブログ)は有名か泡沫かという二択ではない。ときにブロガーが泡沫のままブログが読まれることもある。アルファでなく、オメガでない。その曖昧で半端な中間領域にまとめブロガーはいる。そこでなぜブログが読まれるかといえば、まとめなど特定の目的のためで、ブロガーが誰かはあまり・ほとんど関係ない。しかしだからといって、誰でも・どの記事でも同じように読まれるかというと、そうでもない。まとめ記事に付くブックマークの差は大きいからだ。私自身が気になるので、「まとめ理論」について少し考えてみる。

アルファとオメガという対はエネルギーの量(経験・知識・権威…)の差だが、まとめブロガーにはあまり関係ない。経験や知識があって悪いことはないはずだと思うだろう。しかし時に、その経験知識はネガティブな効果をもたらす。「こんなものは誰もいらないだろう」という先入観を作ってしまうからだ。だがどんなジャンルでも人口構成は普通ピラミッドを形成するので、ある程度多く読まれるためには、山頂ではなく山麓に向かわなければならない。

ではまとめブロガーに求められる力は何かと言えば、エネルギーではなくエントロピーである。リンクが10倍の量あったら10倍便利になるものでもないし、長文の感情的コメントがついていても鬱陶しいだけだろう。だから、まとめを読ませる力は感情のエネルギーではなくて、ニッチな潜在的需要を発掘するエントロピーになる。素朴に考えて、まとめ記事はWebにおける最も原始的な形の情報集約メディアだろう。

それは一見すると、ディレクトリ型の検索ポータルサイトに退行しているかのような印象を受けるかもしれない。しかし実は、両者は全く対照的だ。ポータルサイトが一般的なジャンルを中心に、有名なサイトを集めていくのに対して、まとめブログはあまりに一般的過ぎるジャンルや有名なサイト・記事だけでは既出なので仕方ない。といってあまりに特殊なジャンルで無名なサイトを選んでもやはり仕方ない。ポータルサイトが中心的なのに対して、まとめブログは限界的である*1。すなわち、ポータルのカテゴリの隙間、その剰余を集めることで成立しているのである。

媒介的ブロガー

シロクマの屑籠(汎適所属) - sirouto2さんは、執着地獄にいらっしゃるのだろうか?

 かつて、sirouto2さんから聞いたことがある。曰く、己自身がテキストをアップする際、「敢えてメタ」な立ち位置からエントリを書くんです、と。だが、昨今の様子をみている限り、どう考えてもブログを書くことに関する諸執着にまみれているとしか思えなかった。

限界的なブログはシステムの隙間からアクセスを呼ぶ力を持つが、その代償としてブロガーは不安になる。私のまとめ記事だけでも、記事によってブックマークが数十倍開いた。他者が何を欲しているかは分からないから、特に最初のジャンルを決めるときには迷い悩むことになる。アダルト(性)のような強力な媒介があるジャンルや、2ちゃんねる(VIP)のような、最初から大勢集まっているジャンルはともかく、どうしても暗中模索になる。

他者に向き合うことに不安になっているというよりも、他者に駄目出しをされかねない自分や、他者に見向きもされない自分に向き合うことに緊張し不安になっているのではないか

これはその通りで、他者というのは自分が外部の世界に投影している他者(「たぶん読者はこんな記事なら読むんじゃないか」)だから、他者に見向きもされないというのは、ドーナツのように自己の一番中心に開いた穴に対する不安に他ならない。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と言うが、むしろ積極的に枯れ尾花に幽霊を読み込む立場が媒介者なのだろう。しかしもう少し話を続けよう。

羅列型のニュースサイトの場合は時系列なので毎日読むが、SBMを前提にしたまとめブログはカテゴリ選択に失敗すると本当に読まれない。(少なくとも私の現状では)「まとめはジャンルが九割」と言えるかもしれない。「現代は価値観が多様化した」「趣味は人それぞれ」といった主張がよくなされるが、まとめブロガーは断片化した複数の共同体に、それでも共通しているような要素を何とかして見出す必要がある。

要するに、色々な人間に共通する欲望を見つけるために、まとめブロガーは常に媒介的でなければならない。権威がないところでは自分が欲しい記事しか読まないので、押し付けたまとめなど誰もいらないだろう。しかもその上、個々人に「こんな情報が欲しい」と聞いてから記事を作成することは、現実にはなかなかできない。逆に、提示してからはじめて「こんなのが欲しかったんだ」と思わせないといけないのだ。

結論的まとめ

アルファブロガーがどこかヒステリー的(分裂的)なところがあるのに対して、まとめブロガーは倒錯的(オタク的)でないと務まらない*2。あるいは日記型ブロガーが「こんな単純作業は嫌だ」と思うようなところに、単純でない細部を見出すのだ。例えば、リンク数が幾つで、どんな順番で並べるのが最適なのかだけでも、単純に結論が出るとは限らないだろう。それは「人生はゲームだ」というようなアイロニカルな態度に対して、「ゲームが人生だ」というような転倒した執着力でもある。つまり、確かに執着はあるが、メタなのではなくむしろオブジェクトに対する執着なのである。

*1:つまり常にギリギリで成立する。これは時間についても当てはまる。まとめる対象が出来事の場合、時期が早すぎるとまとめる記事がなく、遅すぎると他の記事に出遅れる

*2:しかし私も切り替えが上手く行かず、失敗してヒステリックになってしまう場合もある