オタクと自意識至上主義

シロクマの屑籠(汎適所属) - あのとき僕は「日本のアニメは世界一だよねっ!」と頷いてあげるべきだったのだ

「いや、社会的に認められるのは一部の漫画とかゲームとかだけで、別に俺らじゃないでしょ。」

これは当然の話で私もそう思うが、しかし逆に考えて、社会的に認められるために*1特定の作品を支持する、あるいは趣味を選ぶのであれば、それは単なるポリティクスやファッションの問題になる。コミュニケーションはそれはそれで重要だが、なんでも自意識的政争の具にしてしまうのは発想が貧しい。それでは、社会的成功の単一基準のみがあって、後はどんなジャンルもそれを満たす手段・道具でしかないのだから同じものになってしまう。

このメタ的視点においては、作品の内容は全く関係なくなり、社会的認知の権力・権威だけが、例えばランキングという形で数直線として形骸的に残るだろう。俗世間ではそういう話題だけがワイドショー的に流通するのは仕方ないが、それだけではない。だがそれはどういうことか。

私は、別に特定のジャンル・作品を支持することで社会的に認められるなどとは思っていないが、作品に認められるように鑑賞しようとは思っている。ここで注意すべきは、私が作品を認める、ではないし、作者に認められる、でもないことだ。この考えは分かりにくいかもしれない。

先に自意識的政争の具にするのは貧しいと書いた。つまり、個々の作品を見る意味がないということだったが、作品の固有性を突き詰めていくと、交換不可能性に突き当たるので、今度は価値がなくなってしまう。それはつまり、「日本のアニメは世界一だよねっ!」ではなくて、「このアニメはこのアニメ一だよねっ!」ということになる。そのような作品に出会い、そのような感想を持つことは実際には難しいが、意識的にそれを目指してはいる。

*1:これを社会的に「認められないために」、と裏返しても同じことだ。「アニメが国際的に認められている」と「B級文化だからよい」「オタクは死んだ」という言説は本質的には大差ない