『涼宮ハルヒの憂鬱』のバニーガールというミッシングリンク
ミッシングリンク
また君か。@d.hatena - バニーガールという切れたはずの鎖
ともかく、そんなわけで、すくなくとも 90 年代から 00 年代までの十年くらいは、「バニーガール好き」という流れはほとんど断絶していたはずなのだ。
でもなんかちょっと前まで若オタ嗜好の最先鋭のひとつであったはずの作品に堂々とバニーさんが居ますよ。おかしいな。
それはみくるがわりとどうでもいいひとだからです(ひどい)。以下ネタバレあります。
彼女は出番は多いけれども、大体においてお色気要員で、鶴屋ほども活躍しませんし、インパクトでは朝倉に負けるでしょう。ファンの人気もハルヒと長門で二分しています。それでは、アニメ第1話でみくるのバニー姿が映っていたのはどういうわけでしょうか。それはまさにバニーが時代錯誤だからこそ、着ているのです。どういうことか。
『涼宮ハルヒの憂鬱』第1話「朝比奈みくるの冒険」は、自主制作映画のパロディで、あらゆる場面でトンチンカンな演出が見られます。そしてその勘違いは、一番最後で「超監督」涼宮ハルヒに由来することが分かります。ハルヒが(間違った)受け狙いで着せたのが直接の原因でしょう。しかしでは、お色気とギャグを兼ねた、ちょっと懐古的な受けを狙ってみただけの衣装なのでしょうか。それだけではないのです。
第1話と同じ物語内の時間軸上にある「ライブアライブ」の回において、ハルヒ自身がバニーガールの衣装を着てライブで歌います。そしてみくるの方はメイド服を着ています。最初の方ではハルヒとみくるが一緒にバニー服を着てチラシを配っていました。この違いに注目しましょう。
やろうと思えば、ハルヒがメイド服を着て歌う展開もありえたわけで、それはそれで萌えたでしょうが、バニー服の方が物語的には正解だろうと感じます。それはハルヒがみくるのように従順ではないというキャラの問題もありますが、更に根が深いと考えます。どういうことか。
メビウスの輪
『新世紀エヴァンゲリオン』における綾波レイの包帯との対照で見ると分かりやすくなります。エヴァの包帯は、作り手の直接の事情としては「筋肉少女隊」からインスパイアしたものでしょうが、作品全体から見たときに、レイ及び登場人物全員の精神的外傷のようなものの暗喩になっています。要するに、いわゆるトラウマの表現というやつですね。
一方これがハルヒのバニーの場合、逆にトラウマの「なさ」を表現しています。野球場で自分の存在の小ささを悟った経験は、トラウマとかではありません。どういうことでしょうか。レイの場合、彼女は最後にシンジと別れるわけですが、ハルヒは最後に(アニメ版最終話)キョンと共にSOS団に戻るわけです。
最終話を見る限り、ハルヒはSOS団なんかどうでもよくて(目的ではなく手段だった。この点で「ビューティフルドリーマーとも違う」)、でもキョンが引き留めるから、新世界の創造を捨てて残ったわけです。レイの場合はネルフというか人類補完を捨てませんでした。だからハルヒにはどうでもいい世界なんですが、その世界にいること自体はどうでもよくないのです。
どうでもいいみくるに着せたどうでもいい衣装を、今や自分が着て舞台に上がっているという展開だから、ライブアライブは素晴らしいわけです。もしあれがハルヒがメイド服を着てTVに出演して人気者になったみたいな(しかもその様子が街頭の大型液晶ビジョンで映ったりする、アイドルもののアニメでありそうな)話だったら、全然お話にならないのです。なぜなら、電器屋のオヤジがハルヒのことをあまり覚えていない位ですから。それではセカイ系たりえないでしょう。
つまり、レイの包帯が人類補完計画に縛り付けるものなのに対し、ハルヒのバニー服はどうでもいいちっぽけな日常で道化を演じ続けるためのものなのです。そして、薄っぺらい表層の現象に留まり続けようとする覚悟が徹底していたために、他の凡庸なアニメとは全く違ったものになっているのです。