むしろ自意識の暴走を抑えるためにアクセスアップがある

煩悩是道場 - ウエブログに於けるアクセス数と自己実現
シロクマの屑籠(汎適所属) - 自己実現の為にアクセス厨になった人は、無間地獄でのたうち回る


「無間地獄」のコメント欄を見ると、アクセス厨がアクセスを求めるのは「自意識に潤いを与えたいから」とされているのですが、私が感じているのは全く逆で、自意識を相対化して客観視するためにアクセスがあるという感じです。もっとも、キャラが立って自分語りが芸になっている人には当てはまりません。これは、どちらが正しいというより両方あるでしょうが、その対照的な構図は興味深いところです。


自意識のためのアクセスの話は上の記事にあるので、ここでは違う視点で解説します。もしアクセスという枠組みがなくなってしまうと、よほど自己批判のセンスがある人でなければ、自分を相対化する機会や動機がなくなります。人の目を気にしないでマイペースにやるというのも大事だと思うけれど、実際にはそれが自己中心的な言動につながることも多々あります。そこでアクセスによってフィルタリングすることで、ある程度ソフィスティケートされます。


しかし、アクセスを相対化の手段に留めておくことは大変難しく、容易に(自己)目的化してしまいます。それは、例えば学歴社会、もっと言うと資本主義社会を見ればすぐに分かることです。そしてアクセスを最も効率的に追求していけば、VIPBLOGやアダルトサイトに行き着いてしまいます。そこでは自意識は障害以外の何物でもありません。アダルトサイトに行く目的はエロであって、それを誰がやっているかは全く気にしないでしょう。


このブログも無機質化していって、最終的に羅列ニュースになりそうな予感はしています。今のところ自動更新の萌え理論Portalではこの本家Blogに及びませんが、労力を考えたときに、ある程度以上のアクセスに達した段階で、萌理Pと同じ仕組みで違うジャンルのものを何台も設置すれば良いということになります。(ただし、例えばIT系のニュースで同じことをやっても、プログラマーなら自力で情報収集できるから全然使われないかもしれません。何でも同じシステムで行けるとは限らない。)


そういうわけで、私自身の立場から言うと、自意識過剰よりもどちらかというと、アクセスを追及した結果、究極的には全てが機械化され、自意識の関係ない世界になってしまうという方に、漠然と危機感を募らせています。シャッター街自動販売機だけに売上げがあるみたいな。今はともかく、もし将来的に数字が目に見えて出てくるようになった場合、それが実益に結びついてくると、気分だけで否定するのは難しいでしょうから。もちろん、それも一つの到達地点ではありますが。