人は自由に生きられるか

萌え理論Blog - 自分は無価値、他人がつらい、という心理(前回)
うどんこ天気 - 先生の話の補足

先日の結論は「ノーって言え」ではありません。

ロリコンファル - 倫理的自由 −高貴であることの覚悟−

自由とはこの先がある訳ですよ…。
世界と自己との相克、内発的倫理と外発的環境との相克…。

空気が決めて「イエス」で「ノー」

しかし、なぜ最初から「イエス」と言えないのか。またわれわれは現実に「イエス」あるいは「ノー」と言っているだろうか。他人に自分の人生を預けてしまうのは虚しいが、といって本当に抵抗しているだろうか。具体的にこの一週間を振り返ると、いつどこで自分で決めて言っただろうか。


現実の学校や会社やその他共同体では、<自分で決めて「イエス」>とすることは難しい。組織には命令系統があり、上司には逆らえまい。また「お客様は神様だ」という言葉があるが、仕事とは他者に「仕える事」であり、労働の報酬は相手の利益と自由の代償への対価なのである。


日本という地域や現代という時代の問題もある。ここら辺は日本人なら説明しなくても分かると思うが、自分の主体的で積極的な意志で何かすると、貧乏くじを引かされてしまうことが多い。自分で決めると「空気が読めない」と暗黙のうちに非難されて排除されてしまう。もっとも、完全に自由な場所(ユートピア)など、いまだかつてどこにも存在したことはないのだが。


学校で誰も手を挙げたがらないという経験はないだろうか。手を挙げる程度のことが憚られるのであれば、自分の人生を自由に生きるということが急速にお題目に見えてくる。言わばエヴァンゲリオンの最終回(「僕は僕でいいんだ」)のように、正し過ぎて逆に現実から浮遊したものに感じてしまう。


しかも、虚構に対してですら完全に「価値」抜きの純粋な関係などありえない。例えば大抵の「美少女ゲーム」は「美少女」の萌え絵や声や文章イメージがあるから価値があり、いくら純愛を謳おうと、「ブスゲーム」「ババアゲーム」は寡聞にしてあまり聞かない。これはBLでも嗜好の幅は広まるものの、事情はそう大きく変わらない。しかも商業も同人も「流行」に大きく左右される。


こうしてまた、いつもの二元論、現実と理想が云々といった、デジャヴを感じる流れに帰してしまった。しかし、ここではより細部に注目してみよう。

のみならず

倫理21 (平凡社ライブラリー)(書籍)

他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱え


上記は私が感じたこの本で一番面白い部分だ。今まで述べた問い掛けに対する、極めて洗練された回答になっている。確かに現実的には、価値抜きの関係、すなわち他者を目的として扱う、他者を自由なものとして扱うことは、非常に難しい。現実は厳しく、飯を喰うためには甘いことは言っていられない。


だが、そのことからただちに、他者を手段「としてのみ」扱う道しか残されていないということにはならない。少しは目的としても扱えるはずだ。そして「現実は〜」などと言って説教/弁解して開き直ろうとする者はいつもそこを無視している。最後に簡単に整理しよう。


われわれは神ではないので、外的条件から完全に自由になることは絶対にできない。必ず様々な共同体の様々な規則に縛られている。しかし、それを満たしつつも同時に、自由に行為する剰余が残っているはずだ。それを可能性と言う。他者をただ利益を満たす手段ではなく、目的として扱うということは、可能性を認めるということだ。


もちろん、そういう自由な関係を築くことは容易ではない。「イエス」「ノー」と宣言すれば、悟りを開いたようにたちどころに悩みが解決してしまうわけではなく、毎日実践していくことで少しずつ実現するものだろう。