マンガ・アニメの読者論

前月はマンガサイトを紹介してきたが、いったん、マンガ界全体を俯瞰した考察もしておきたい。ここでは読者という視点を通して考えてみよう。マンガの読者から出発しているが、アニメやゲームにまで辿り着くように道筋を描く。

投票・市場・複数性

漫画と読者の関係において、まず問題は読者の複数性にある。自明なことだが、誰か一人だけが読む形で、商業的に成立する漫画市場はいまだない。(アシスタントはいても)作者が一人(一組)なのに対して、読者は複数人が読む(1対n)。そして、読者の判断は、アンケートや雑誌単行本の売れ行きから分かる(ここで編集者は自己主張しない透明な読者の代表だとする)。


アンケート投票(視聴率でも同じ)のような統計装置で判断する限り、作者は平均的読者像に向けて描いていることになる。いや彼彼女は常に身近な誰かに向けて描いている、というような話はここではバッサリ捨象してしまう。もっと単純に考えると、ピラミッド構造をしており、平均的読者の水準はそう高くはならない。当然のことだが読者の半分は平均以下なのだ(もちろん作者の半分も平均以下だ)。

量/質

しかも、読者一人の中にすら平均的水準が存在する。作者は仕事で描いているが、読者は仕事で読んでいるわけではない。それに連載は一度話が分からなくなると追いつけない。だから、能力をフルに使って読む状況を期待してはいけない。大衆娯楽としては…通勤電車で読んで網棚に捨てられるのが良い漫画なのである。これは他のメディアでも同じ現象があるだろう。子供から老人までいる家庭で、食事を取って喋りながら、BGMのように流されるTVに比べたら、手を塞ぐ本という形態を取っている漫画は、まだましな環境にあるかもしれない。


もちろん統計装置が全てではない。例えば一冊の本。これを一回で読み捨てるのも、ボロボロになるまで読み直しても、売れ行きとしては同じだ。集計するのは数であって質ではないから当然とも言える。しかしそうはいっても、売れない本は出せないだろう。すると(一部の伝説的作品を除けば)平均化を止める手段は事実上ない。他にも自由競争による平均化・平準化は、例えばファーストフードやコンビニエンスストアなどでも眼にしている現象だ。基本的に自由競争市場を肯定するにしても、何でもかんでも良くなるというわけではない。

メディアミックス×ロングテール

だが、「メジャーな作品は最大公約数的」というだけの話ならいかにも凡庸ではないか。ここから結論に向かって加速しよう。確かに、統計装置は数のみを計り質を無視する。しかし、質を常に数に変換するシステムがあるとどうなるか。それは、媒体を変えつつ同じ作品を売ることで、同じ作品の質を数に還元してしまう、メディアミックスに表れている。例えばジャンプは黄金期に比べて部数は減っているが、関連商品は売れている。『遊戯王』のカードゲームは売上げをギネスブックに申請したそうだ。だから、マンガの通念が、平均的読者に向けたものから、(売上げ的に)優秀な一部の読者の囲い込みへと、段々と変化しているという視点が出てくる。


しかもこれがロングテールと結びつく。差し当たっては、多種多様な商品が閲覧できる方がメディアミックスには有利、程度の意味だが、もっと広く取れば、コミケロングテール(の一種)かもしれない。アマゾンと違ってコミケは費用が掛かるから低コストで管理できるという条件を満たしていないが、それまで市場に出なかった欲望をすくい上げている。そしてメディアミックスもロングテールも、まるでマルチエンディングのゲームのように、読者の作品に対するオルタナティブな選択の余地を与える。そのとき1対n構造が解体するだろう。どういうことか。

作家の読者性と読者の作家性

一人の作家の作品を複数の読者を読む。この非対称性から作家は「先生」などと呼ばれる立場にある。素朴に考えれば、作者が作品を描く前に読者が生まれることはないだろう。しかし、普通は似ていれば思い出すので、「この作品(に似たものを)前にも読んだぞ」という事態が発生する。それはオリジナル性が良いとした思想的には例外的な事態なのだが、同人とりわけ売れ線の二次創作は、それを倒錯的に反転している。そこでは読者が先生なのだ。つまり、売れ線二次創作は流行を追うわけだから、読者が読む(そして評価する)前に作者が描くことはない。この転倒した力関係を作家の読者性とでも言えよう。


そして最後に、もう一方の読者の作家性について考える。供給過剰な市場で選択肢が豊富にある場合、消費が単に創作物を受動的に消費するに留まらず、積極的な能動性を発揮する場合がある。消費がメタ創作(編集的・批評的といってもいいかもしれない)になるのはどんな場合かを考えてみる。素朴に考えると、原作をもう一回アニメ化したりすることは無意味に思える。情報は既に伝えられており、重複してしまう。ところが、同じものを反復するからこそ、見る側としては意見が言いやすくなる(ここはこう)。簡単に言うと反復には創作性が薄いが、受け手のメタ創作がしやすくなる。そしてその創作と消費の曖昧な領域(プロシューマとでもいうか)において、ネットのコミュニケーションも一定の役割を果たしているだろう。