アニメ版『つよきす』の違和感は仮に予算が増えても解消しない

なんだかよく分からない批判

黒澤記 - アニメ版「つよきす」鑑賞後
萌え理論Blog - アニメ版『つよきす』は外伝(関連)

総評を下すには全話見なくてはならないのがTVアニメだ。(…)最初の2話だけで切り捨ててはいけない。

と言いながら、冒頭で

今のアニメ消費頻度だと、今後見るのをパスしてしまうだろうレベル。

と言っている。更に前の記事ではそもそもアニメを見ないで語っていたし、なんだかよく分からない。「総評」じゃなければいいということかな。

アニメには時間と金がかかるってのをもう少し自覚した方がいい

そんなのみんな前提にした上で語っているのでは。そもそも他の原作からアニメ化した作品も、(だいたいは)同じ条件でやっているわけだから。

京アニの「ハルヒ」はどれぐらいの予算なんだろう。もし標準的な予算であそこまで質のよい作品を作ってしまっているとするなら、アニメ業界全体から見たらそれは害悪だろう。同様の予算で、京アニ級の作品を作らないと「手抜き」とか「高い」ってことになる。

「害悪」って…。それは出る杭を打つのではなくて、質の良い作品を作るところにお金が行くようにするべきでは。現実には難しいけど。


全体的によくある一般論のレベルでしか語られていないけれども、予算がどうこうとかではなくて、単純に全然原作を理解していないのが最大の問題だと思う。予算に不相応な質を求めている、あるいは端的に予算が足りない、と不満を言っているのではない。

アニメ版『つよきす』の違和感は仮に予算が増えても解消しない

だから前述の議論は的外れだと思う。更に言えば、もし声優が全く同じメンバーだとしても、絵が原作の絵柄に近くても、むしろそのことによってかえって、根本的な違いが浮き彫りになるだろう。もちろん方向性を変えていけないことはないんだけど、原作を理解した上で違う道を行くのと、無自覚にズレるのは違う。まあ現実にはもし作画が美麗なら、文句を言いづらくなるとは思うけど。


では何が違うのか。両者の違いを考えてみるのは結構面白い。原作『つよきす』の面白さというのは、ヒロインの男性を選ぶ基準が明確にあり、それを理解し攻略する流れにあると考える。そこでのヒロインの個性は、単に語尾が変わっていたりとか、萌え要素がくっついているとかではない。性格が強気とかそういうことだけではなくて、主人公に対する条件が厳しいのだと思う。ちなみにこの線引きが分かりやすいのはなごみである。だから例えば、主人公のことを無条件に好きな妹が出てこないし、(乙女とカニに部分的にはあるが)幼馴染の想い出のようなものにも頼らない。


だからアニメ『つよきすCS』の演出には多大な違和感がある。例えば『ちょこッとSister』の場合は、無条件に主人公を受け入れるところから始まっているから、ねこにゃんダンスとかも合っていると思うけど、つよきすCSのアイキャッチは浮く。また全体的に演出の感覚が、アニメ的約束事に頼っていると思う。ショックを受けると石になって崩れ落ちるみたいな。あと土永とか不良の扱いが何ともいえず古い。80年代〜90年代的アニメ・ギャルゲの能天気さの残滓を感じる。00年代のエロゲとしての『つよきす』との差に時代の流れを感じる(もっとも『つよきす』自体は伝統的な学園物エロゲの系譜で、新しさを感じるタイプのゲームではないけれど)。


演劇という中心になる設定を見てみると、かつての高橋留美子的な使い方で、それはつまり、下位虚構としての陳腐な劇中劇を崩壊させることで、相対的に今いる虚構の視聴者との連帯を高める、という用法なのだけれど、この手法はいま減っている。例えばハルヒライブアライブは、劇中劇の方がリアルだ。他にも『となグラ』で「テラスに立つお姫様」という近衛に似たシチュエーションがあるが、誰かに呼ばれることでふっと消えてしまう。『NHKにようこそ』でも電化製品の擬人化のシーンがあるが、それは主人公がラリっているからで、客観的なシーンはリアルに描いている。


最後に『つよきすCS』で近衛が主人公になっていることの問題について説明しよう。前述したように『つよきす』は各ヒロインが主人公(恋人)に確固たる条件を求めているのだが、近衛視点でそれを描くのは難しいように思われる。それと近衛とヒロインの間に芽生える感情はまあ友情だろうから、恋を描くなら近衛とレオになるだろうが、そうすると幼馴染の想い出パターンになるから、『つよきす』のようなヒロインを理解する過程は弱くなると思う。ただ、「ツンデレ」というのが一般には(「○、○○じゃないんだからねっ!」みたいに)、「自分の好意に対して素直になれない」と捉えられているから、ベタなツンデレ像としてはそちらの方が近いかもしれない。