「書いたことを好きになればいい」というアドバイス

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via: REVの日記 @はてな


米光一成によると「書きたいように書けばいい」というのは「生きたいように生きればいい」と同じだという。あるいは「好きな会社に就職(転職)すればよい」「好きな娘と結婚(離婚)すればよい」とかか。確かにそれができれば苦労しないが、現実にはそう上手くいかない。少し抽象的な言い方だが続けよう。


理想と現実が一致することはなく、「好きなように」が「嫌なら止めろ」式な説教に容易に転じてしまうことがよくある。なぜそうなるかというと、どんなことでも最初のうちはある程度、退屈な作業を乗り越えなければならない時期があるからだ。やっていることが思っていることに追いつくまでに必ずタイムラグがある。それが年単位になることも珍しくない。プラトーのように後で来ることもある。


そこで私は、むしろ「書いたことを好きになればいい」というアドバイスをしよう。これは自分の主義主張や思想思考やそれを表現した文章にうぬぼれるという意味では全くない。むしろ好きになるように努力するのである。どういうことか以下で説明しよう。


「好きなことを書く」というのは恋愛的発想である。それに対して「書いたことを好く」という見合的発想もある。どちらが正しいということでもないだろうが、ここでは一般的にあまり普及していないだろう後者の考え方に注目してみよう。


自分の本当に書きたいことはかえって書けない、また面白いことは思ったほど面白くないということが多々ある。なぜそうなるかというと、「言葉に出来ない」ほど大切なものだから、という場合がある。それは定義上書けない。更にあえて言えば「認められたい」のように直接書くことができないものもある。


「好きなことを書く」と「書いたことを好く」は反転しているが、単に対称的なのではない。「書いたこと」は(自分が分かっていることを他人にも通じるように書いたならば)基本的には誰でも共有可能なものなので唯物論的で無理がない。


具体的に書こう。「好きなことを書く」というのはパッと見はステキメソッドなのだが、実際に蓋を開けてみると「好きなこと」はその人のアイデンティティーと結びついていることが多いので、感情的で闘争的な文章になってしまうことも多い。


例えば、「○○が好きだ」という人が○○がいかに素晴らしいか書こうとすると、思ったほど○○の良さが書けず、それは本人の信仰から生じているから他人に理解できる言葉に落とせないわけだが、「(○○と対照的な)××は糞・××が好きという奴は頭がおかしい」という排他的な文章によってようやく自分の位置を確保するという結果になることも多い。その場合のコメントというのは、好きなことに対する余計な不純物・誤差でしかない。


一方、先に手を動かして書いた文章というのは、最初はまるで他人が書いたようによそよそしいものになるだろうが、何度も反復して書いてるうちに段々血が通ったものになり、コメントやトラックバックを通じて豊かなものになっていく。つまり、コミュニケーションを通じて成長する。もちろん良い面ばかりではなくて、単に中身のない文章になってしまうことがもちろんある。


今までの話は抽象的で分かりにくいかもしれない。簡単に言うと、「○○は名作」とか「○○は面白いはず」といって期待や信仰で買ったゲームが積みゲーになったりすぐ飽きて中古に売ったりすることがよくある一方、こんなよく知らないものどうでもいいと高をくくっていたゲームがやってるうちに手放せなくなることがあるという、そんな感じなのである。