感じたものがわたしのセカイであるというお話

ゼーガペインへの長い道 −quantum signature−


マトリックスよりの世界観では、オメガ点理論というのがありますね。この宇宙をシミュレーションすることが、場合によっては可能かもしれないという話です。ひょっとすると塵理論に近いのかもしれません。よく知らないですけど。


この世界が仮想空間かもしれなくて、しかしその上位の仮想空間もさらに上位の仮想空間が構成しているかもしれない。かくして確かな「現実」の無限後退は止められないのですが、逆にどんなにメタな世界があっても、それは形而上学的説明に過ぎないという見方もできます。


つまり、ラーメンが美味いというようなクオリアがあって、それはラーメンの実体が実は素粒子でもビット列でも霊魂でも思念体でも夢でも何であっても、美味いという感触は確かな経験としてあるということですね。

自分の人格が、実は架空のエピソード群で育まれたと知っている。

それでもなお、それは大切な、かけがえのない、自分の思い出だ。


だから、これはまっとうな感覚ですね。演じるということの倫理性というか、吉田戦車の「中の人などいない」ですね。芥川にもそんなモチーフの短編があったと思います。あと『千年女優』みたいな。が、『MEZZO』で恋人がバーチャルだったという回があって、そうした演じのリアルさよりも、騙された驚きの方が勝っていました。人間は「本物」への欲望も強いんですね。


YU-NOEver17は、また項を改めて書きますが、そういう仮想現実みたいな感覚をゲームがどう描くか、そして今のわれわれがそれを感じているのはなぜか、というのは興味深いテーマです。