物語はなぜオチが必要なのか

はじめに

復活しました。まずは基本に戻って、物語について考察します。よくあるようにオチのパターンを並べてみたりするのではなく、そもそも物語にはなぜオチが必要なのか、あるいは必要ないのか、ということを考えます。今回はゲームの手ではなくゲーム自体を考えます。

射精説

物語はなぜオチが必要なのか、という疑問に性急に答えるなら、性交の比喩が明快だろう。即ち、オチのない物語は射精のないSEXのように散漫なのである。ただし、セックスレスの夫婦が増加しているという話もあるし、オチどころか物語も実は必要ないのかもしれない。これをもうちょっと格好つけて言うと、物語のファロセントリズムということになる。

散文的・韻文的

しかしこの喩えだけで終わってはあまりにも早漏的だろう。上で言ったことを丁寧に言いなおすと、物語の作り手は男性が多く(だから女流作家という有徴の肩書きがある)、物語も男性社会の目的論的な傾向を継承しており、だからオチが必要なのだ。証明が「Q.E.D.(証明終)」で終わるように、散文的・物語的・論文的な文章・表現はオチ(結論)の重要性が高い。


例えば新聞記事で「○○市で大事故〜かと思ったら夢だった」などという結末はありえない。小説はそこまで縛りが厳しくはないが、しかしミステリなどは近代的リアリズムに則っているので、ある程度合理的な結末が要請される。ここで清涼院流水からひぐらしまでポスト本格ミステリの存在に触れたくなるところだが、基礎を積み上げるためにひとまず後回しにする。


逆に韻文的・詩的・芸術的なものは、オチの比重が比較的軽くなる。詩のラストは余韻を残してよい。ここで例えば音楽のコード進行においては、不協和音程から協和音程への進行を解決 (Resolve) といい、その終止形がオチに相当すると考えるが、ミステリの非合理化と音楽の無調性化は平行しているのではないか。つまり――

エンドマークとテロップの違い

久々にブログを書くので、つい先を急ぎ過ぎてしまう。散漫になるのでオチの必要性・不必要性に話を絞ろう。散文−韻文・目的−手段・主体−環境といった二つの表現形式があって、オチは前者の形式の求心力(目的地)になるのである。古典的な物語のテーマは、目的的なので(それが穴に落ちる・危機に遭うという形を取る)、オチも決まる。


だが現実の社会の方でも「大きな物語」の凋落といった事態が起きており、虚構の物語の方も目的を見失ってしまう。すが秀美が渡部直己との対談で言うには、昔の映画はエンドマークが出てスッキリ終わったが、今の映画はテロップ(キャスティングロール)をダラダラ流すという違いがあるという。それはTVでも変わらないだろう。テロップを多用し「CMの後も続きます」。


この流れはオタク系文化でも変わらない。マンガだって長期連載化が常態だし、アニメだってエヴァ以降上手く終われず物語が崩壊しがちだし、ゲームだって続編に丸投げすることが多いし、更に本にフィギュアのオマケが付いたりする(むしろフィギュアに本のオマケがついているようにも見える)過剰なメディアミックスは、環境音楽のように物語を日常化してしまう。日用品の擬人化などもその流れだろう。

ユビキタス物語

旧来的な物語は特定の目的を持っていて、それが果たされた後はオチによって読者のメモリを解放しないといけない。そうしないと日常でも気になってしまう。だが現在の萌え系のコンテンツなどはむしろ常駐型になっていて、例えばデスクトップアクセサリーからマグカップに至るまで、ユビキタスな物語が日常を占有している。この非日常の日常化は、無秩序の秩序化(複雑系)と同じことである。つまり前から言っているネオエクスデス化の一面である。


うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー』においては、永遠に回帰する非日常といったモチーフはいまだ憧れの対象であったが、驚くべきことに今はそれが現実化しつつある。もちろんそれはほんの一部分でしかない。メイド喫茶で食事をするだとか、抱き枕を使うとか、PCにゴーストがいるとか、その程度のことではあるが、しかし確実に侵食し始めている。コンピュータが白衣を着た技術者の手を離れてコモディティ化したように、物語もヒーローから離れてコモディティ化するだろう。

落ちる

最も素朴な疑問を提出しよう。物語が「落ち」るとは、どこに落ちるのか。それは現実である。読者が虚構の世界に別れを告げ、現実に着地するための挨拶が、オチに他ならない。成功であれ失敗であれ、物語が提出した様々な伏線・謎を回収し、主人公は何かを悟り精神的に変化する。だが、今まで見てきたように、ユビキタス化・コモディティ化した虚構は、そうしたイニシエーションをもはや必要としない。


しかし、代わりに読者がオチをつける。それは「別れ」ではなく「忘れ」という形を取る。物語・世界観・キャラ萌え尽きて、それらにシビレルことがなくなったとき、自然と忘れる。ソフトウェアの代わりにハードウェアが終了させる。つまり電源が落ちるのである。