アニメから見る―精神分析を通して萌え理論へ

前書き

ブログ開始一ヶ月記念と一万ユニークアクセス記念(予定)を兼ね、
このブログでも、連載形式のエントリを書いてみることにしました。
ジジェクによるラカン精神分析をアニメから見るという企画です。


斜めから見る―大衆文化を通してラカン理論へ スラヴォイ・ジジェク
をインスパイアした二次創作ならぬ二次批評を行おうということです。
この本自体は日本のアニメには触れていないのですが、応用するわけです。

萌えのパラドクス


  「永遠はあるよ。」


           ――『ONE』


ゼノンのパラドクスに、「アキレスは亀に追いつけない」というものがある。
これ自体への考察は控えておこう。しかしただ一つ言えるのは、無限の加算
も有限の値に収束しえるという無限級数を持ち出しただけでは、解決しない。


アキレスと亀のパラドクスは、線分が無限の点で構成されているならば、
無限の点を通過する作業は不可能であり、なぜならそれは自然数を数え
終わることと同じで定義上不可能なので、線を移動できないという事だ。
*1


夢の中で誰かを捕まえようとしても決して捕まらず、あるいは誰かから
逃げようとしても決して振り切れない、という経験があるかもしれない。
言語によって自らの存在の分裂を経験した主体を、夢が表現したものだ。


この接近するが到達しない夢のパラドクスは萌えのパラドクスでもある。
われわれはいくら二次創作に接しても萌えている対象自体に到達しない。
323系の絵師がどんなにハンコ絵でも差異は必ず残り反復消費できる。


この三つのパラドクスはどれも、言語による無限分割という同じ問題を
実演して見せたものである。線の点による分割。主体の言語による分割。
キャラクターまたはキャラの、萌え要素による分割。同じ主題の変奏だ。


主体は、その欲望の対象=原因(対象a)に追いつくことができない。
何か経験的な理由ではなく、原理的に追いつけないようになっている。
逆にもし、容易に追いつけるようなものなら、欲望の対象たりえない。


したがって、萌えは永遠である。もちろん現実にはわれわれは有限の
世界にしか生きられず、だから永遠とは夢のまた夢ではあるがしかし、
一瞬でも、永遠の世界の可能性を垣間見るからこそ、萌えるのである。

*1:超限数の導入など更に展開できる。参考無限論の教室 (講談社現代新書) 野矢茂樹