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TVアニメ「ローゼンメイデン・トロイメント」キャラクタードラマCD Vol.5 真紅戦国BASARA2 ~蒼穹!姉川の戦い~ ドラマCD

グローバル恋愛資本主義

恋愛・結婚・家族

うーん

恋愛なんか至極個人的なことなのだから、そんな一般化するようなことじゃないんじゃないか

確かに恋愛関係は1対1の個関係だが、一般化できる構造はある。ここで注意すべき点は、後者が前者の否定になるわけではない。同じ現象をミクロ視点で見るか、マクロ視点で見るかの違いだ。具体的に言うと、恋愛問題は結婚・家族問題へのインターチェンジになっている。好むと好まざると、そこを通らないと行けないのだ。

ここで「恋愛できないなら家庭を手に入れればいいじゃない」とは言えない。赤ん坊が入った桃が川の上流から流れてくるわけではないのだから。ただしここで、見合いのような恋愛結婚に対するオルタナティブな制度は今でもあるし、出産しなくても養子があるし、更に遺伝子科学の発展によって自動販売機で児童が販売されてしまうSF的未来など、色々な可能性はあるが、詳細な検討は今は省く。

少なくとも、非モテは将来的に「孤老」になる確率が高いとは言えるだろう。将来、家族もなく孤独に死んでいき(文字通りの孤独死かもしれない)、しかも精神的問題だけではなくて、パートナーの年金や子供の支援がない経済的問題でもあるので、悲惨な末路になる可能性がある。

当然この事態を遡れば、非モテの問題に帰する。例えば「ぼくはだまされませんよ」「近代資本主義に汚染・洗脳された恋愛史上主義から解脱する!」などと、本田透小谷野敦の本の内容を真に受けて、手を打たないでこまねいている者は、このように最期には酷い目に遭う。だから非モテは、右に敵、左に罠、前は闇、後ろに地獄が待っているのである。非モテは二度死ぬ。

しかし、いや、孤老で死ぬのは不幸だが、それはあくまで個の問題であって、まったくの自己責任ではないか、という反論があるかもしれない。これは、基本的にそうだろう。恋愛市場が自由競争の市場としてある限り、責任は個人に帰着するのではないか。ただし、そのことと、社会構造の変化を原因として指摘できることは排他的でなく両立するのである。どういうことか。

グローバル化する現代恋愛

ここで、マクロ視点が必要になる。恋愛関係は性的関係を含むが、性関係には、実は個の関係だけではなくて、全体論的な要素がある。いったいどういうことか、具体的に考えてみよう。さしあたって、考古学的考証なしの、粗雑なイメージで、大昔の時代を想定する。ある村落では、村人がその小さな村から出ないで一生を過ごすとしよう。そこでは、どんなにモテ力があったとしても、村人の数が可能な恋愛対象の上限である。すなわち、モテの物理限界がある。

対して現代は、交通機関も放送通信も発達したので、物理限界はもっと高くなる。一生の内に認識する異性は劇的に多くなる。都会は人間の流動性が高くなるので、複数人と同時期に付き合うのも可能になる。アイドルには(擬似)恋愛関係を望む相手が全国で数万人はいるだろうが、そういう偶像的存在が量産される。アダルトビデオやアニメでも何でもいいが、複製技術・メディアの進歩がある。昔ならそれぞれの村の中で一番魅力的だった異性も、今やランキングの中で何千番目・何万番目の競争順位になってしまう。

もちろん、現実と虚構の区別がつかなくなったりはせず、ドラマはドラマだと捉えるだろうが、しかし無意識レベルではそうではない。視聴覚イメージは記憶に残っているので、潜在的には比較されてしまう。つまり、現実安・虚構高のレートになってしまう。そして、なるべく虚構で模範とされる恋愛像に近い現実を探すうちに、経済的理由などで、恋愛競争順位の上位の人間(主に男)が、自然と恋愛資源を独占できる状態が実現する。

ここで、恋愛関係が排他独占的関係をベースにしているので、「2%だけ恋人」などというロングテールは実現せず、下方硬直性によって競争下位は足切りされてしまう。こうして、恋愛長者が出る一方で、恋愛的な貧富の格差も増大する。しかし冷静に考えてみれば、自由競争の構造を持つ時点で、経済と同じ格差構造が出る帰結は予想できたことである。

関連:萌え理論Blog - 非モテを心の問題に還元するのは危険

asin:4861990025:3*[書評]「電波男」書籍レビュー

恋愛資本主義の中心で萌えを叫ぶ非モテ

今更だが非モテの話が出たついでに触れておくと、本田透の主張には全く納得できない。萌え文化は恋愛資本主義から逃れるどころか、それをより純化したものだと思う。「恋愛資本主義2.0」と言ってもいい。

なるほど、個人の恋愛行為が、至高の純愛という観念から堕落して、メディアの広告戦略に、娯楽の道具に、資本の論理に、汚染されている状況はある。でも萌え文化だって資本主義だろう、常識的に考えて…。マンガ・アニメ・ゲーム・ラノベ・エロゲ…どれ一つ例外ではない。しかしそれらが否定されるわけでもないだろう。今の日本に昔の伝統文化が残っているように、時代や制度とはまた別のものなのだから。

現実の恋愛が、どんなにパラメータ化して資本に汚染されても、個人が判断し行動する余地は残っている。対象が人間だからだ。でも、二次元萌えは最初から資本100%である。対象が商品なんだから。もちろん、「(恋愛資本主義的)恋愛」と「純愛」を区別するとか、そういう理屈なんだろうけど、都合が良くてあまり納得できない。

もっとシンプルに、資本主義であろうとなかろうと、現実だろうと虚構だろうと、比較対照ではなくそれ単独で、良いものは良いと言えないのか。ルサンチマンに関係なく、(仮定なので証明しようがないが)現実が素晴らしいものであっても良い、と言える作品に出会いたい。単に肯定したい。