『ドラゴンクエスト』の主人公は「無口」なのか
概要
- 出版社/メーカー: スクウェア・エニックス
- 発売日: 2009/07/11
- メディア: Video Game
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国民的RPG『ドラゴンクエスト』(以下『ドラクエ』)シリーズの会話について考察する。『ドラクエ』では、「主人公=プレイヤー」の図式を崩さないように、主人公の発言がほとんどない。しかし、それは無口なのではなく、実際には会話しているはずだと考える。
考察
『ドラゴンクエスト』の主人公は「無口」なのか
『ドラクエ』シリーズでは主人公の発言がほとんど見られない*1。しかし、それは省略された表現だろう。実際のゲーム内世界では、物語の整合性が取れる範囲内で、主人公も発言していると見なせる。なぜなら、「〜だって?」「〜ですって?」といった、主人公の発言に対する会話相手の反応が描かれているからだ。
『ドラクエ』の主人公には、無口なイメージがあるかもしれない。だが、それはプレイヤーの印象だ。たとえば、『ドラクエ4』のアリーナやトルネコは、性格的におしゃべりでもおかしくない。また、ミネアとマーニャが全然会話をしないというのも不自然だ。
『ドラクエ4』の第五章では、第一章〜第四章までの主人公が登場して、第五章の主人公である勇者に話しかけてくる。さらに『ドラクエ4』に限らず、キャラクターをパーティに加えると、発言の機会がなくなる現象*2を観察できる。したがって、主人公が発言しないというよりも、主人公の発言が描かれないと考えた方が自然である。
そしてそれは、主人公以外のキャラクターについても、応用できるのではないだろうか。たとえば、町や村の住人が、通りがかりの主人公に対して、とつぜん攻略上の情報を教えてくれるのも不自然だ。実際には、ひとしきり世間話をしている中で、聞き出しているのではないだろうか。次で具体例を見てみよう。
『ドラクエ』ワールドでの会話を想像する
- プレイヤーが見る会話
- むらびと:「AのしろのちかにはBのけんがあるらしいぞ!」
- ゲーム内現実での会話
- 主人公:「すみません、この辺りのことについて、お聞きしてよろしいですか?」
- 村人:「ああ、Cの街に向かう馬車が出るまでの時間、退屈してたんだ。構わんよ」
- 主人公:「Bの剣を探しているんですよ。それがあれば冒険がかなり楽になるので」
- 村人:「Aの城にあるんじゃないか。あくまで酒場での噂だがな……」
- 主人公:「Aの城には行きましたが、Bの剣を見たことはありません」
- 村人:「閉鎖された階段があったろ? 実はそこを降りた地下にあるという話だぜ」
- 主人公:「なるほど、地下か……!」
- (その後、タイミングを見て、適当に切り上げる)
このように、2の会話をプレイヤーに見せたのでは、冗長になることが分かるだろう。そこで、1の会話のように、重要な情報や印象に残る部分だけを提示するわけだ*3。
2の会話にしても、Bの剣の話題を相手が知っていることは事前に知らないので、Dの魔法について聞いたりだとか、さらに膨らんでいってもおかしくはない。
ところで、徹底的に省略された1のような会話だけで、小説を作るというのは相当難しいだろう。大勢の登場人物が、一言二言ずつ喋るだけでは、読むに堪えないものになりそうだ。
だがRPGなら、フィールドマップに配置されたキャラクターという視覚情報を持つので、多人数が少しずつ喋る展開が可能になる。『ドラクエ』の会話は、RPGというメディアならではなのだ。
「はい/いいえ」は、主人公の発言か、プレイヤーのコマンドか
「はい/いいえ」という選択肢も、そのまま言葉にしているのではなく、他の表現で肯定か否定を示していると解釈することも可能ではないか。極端な例だが、状況によっては、主人公が涙を流して、のどを詰まらせながら、うなずいている、といった想像も可能なのだ。
ところで、もし選択肢を「○/×」(あるいは「Y/N」など)のようにすれば、そのまま「○」「×」と発声しているとは考えにくく、プレイヤーも別の受け答えがあることに嫌でも気付くことだろう。ではなぜ、そのように記号性を高くしないのか。
「○/×」では、プレイヤーが理解するために、文脈を補完しなければならず、ストレスになる。「はい/いいえ」なら、プレイヤーに対するコマンドとも、主人公が直接発する言葉とも、自然にどちらの意味にも取れるだろう。
つまり、想像の余地は与えるが、想像することは強制しない。プレイヤーに想像の余地を与えつつ、同時に、想像せずに済む余地も与えているのだ。こうしたふところの広さは、『ドラクエ』の魅力である。
幻想を投影するスクリーン
『ドラクエ』の主人公は、プレイヤーが想像力を働かせれば、喜怒哀楽の感情を持ち、様々な言葉を語る存在として見ることができる。あるいは、ゲームの他の部分に集中するために、無言のNPC同然の存在として見ることもできる。
このように、想像の余地がある芸術は、昔から存在している。分かりやすい例では、パントマイムがそうだ。チャップリンのサイレント映画もそうだろう。日本で言えば、能だろうか。能面は無表情なので、観客はその内面を想像するしかない。腕が欠けている彫刻「ミロのヴィーナス」もそうだ。
それらは、余計な言葉を上書きした落書きから卑俗な印象を受けるのとは逆に、ある種の崇高さを感じさせる。そうした表現においては、対象が欠如することによって、幻想を投影するスクリーンとなり、鑑賞者は想像の世界に没頭することができる。
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