素人の現代思想入門

概要

やるおで学ぶ西洋近現代哲学入門:ハムスター速報 2ろぐ

「哲学で博士号取る予定の俺が、どんな質問にも哲学的に答える」から続いているVIPのスレでして、哲学ネタの雑談なんですが、これを読んで「哲学は難解で衒学的」という固定観念が一層強まると感じたので、また別の角度から、平易な哲学…というか現代思想の解説を書いておきます。もちろん、美味しいところのつまみ食いなので、断片的なものでしかありません。なお、タイトルですが、「のび太の○○」的な感じでひとつ。

「論考」から反証主義

四・四六二
トートロジーと矛盾は現実に対する像ではない。
それは可能な状況を描写しない。
トートロジーは可能な状況をすべて許容し、
矛盾はまったく許容しないからである。
(後略)

論理哲学論考ウィトゲンシュタイン

やる夫が驚いているわけですが、実は一つ前の例を見れば全然難しくない。

四・四六一
(前略)
(たとえば、いま雨が降っているか降っていないかどちらかだ
ということを知っているとしても、それで私が天気について
何ごとかを知っていることにはならない。)

「いま雨が降っているか降っていないか」に情報量はないよね、だって100%当てはまるんだから、という位の意味です。そんな当たり前に見えることをわざわざ言うのは、たとえば「反証主義」というのは、そうではなくて実験で覆る可能性のあるものが科学だ、という話につながっていくわけです。

この反証主義は誤解がかなりありそうで、方法論的に科学の境界線を引こうとしますが、科学以外は無価値という価値判断ではありません。だいたい、論理学や数学もトートロジーの体系で、実験によって反証のしようがありませんが、科学はそれを基礎にしています。

トートロジーではないですが、以前あった、水に「ありがとう」と言うと結晶がきれいになる、というような話は疑似科学です。しかし、人に「ありがとう」と言うと心がきれいになる、という主張であれば、そもそも科学でないですが、科学でなくても別の価値があるでしょう。

科学の名のもとに正当性を主張するのであれば、それなりの条件(反証可能性)が必要だ、そうしないと偽科学が氾濫する、という話なのであって、科学以外の価値を認めないわけではありません。それは、「論考」における論理と倫理の区別もそうです。

「論考」の話に戻りますと、でもまあまともに読むと難解だと思います。そこで、上の岩波文庫の論考の翻訳も手がけているように、国内で有名なウィトゲンシュタイン研究者の野矢茂樹*1の解説書がありますので、予備知識がない人は解説から読んだ方が楽でしょう。

「我思う、故に、我在り」は論証か

我思う、故に、我在り
方法序説デカルト

ではメインに入りましょう。VIPスレ(まとめ)の方では、デカルトのコギトは天下り的に真理として話が進んでいますが、実は哲学史では批判も多い概念なんですよ。でもその前に、コギト側から見た説明もしておきましょう。*2

カフカの『変身』ではありませんが、ある朝目覚めたら全くの別の人物に変わっていても、それは依然として「私」が変身したわけで、私が私でないわけではありません。『マトリックス』のような状況でも同じです。私の属性と世界の性質を全取っ替えしても、私は私。

この現実が夢でも仮想現実でも、依然として私は私であり続けます。直接コギトではありませんが、哲学者の永井均氏は、私は他人の夢に目覚めることはできない、とシンプルに説明しています。そのように現実の情報に全く左右されない*3ので、コギト的主体というのは、面積を持たない点に抽象化した概念です。

さてしかし、私の思考(懐疑)が存在するから私が存在する、というのは存在証明たりえるでしょうか。「私の家が存在する、ゆえに私が存在する」「トンネルの穴が存在する、ゆえにトンネルが存在する」と読み替えてみると、これらの例があまりに形式的なので、途端に怪しくて心細い感じがしてきませんか。

トンネルの穴が穴単体で存在するというのはちょっと認めがたい。とすると、単に「私なくして『私の○○』と言えない」だとか「トンネルは穴も含む」という主張と読むべきではないか。コギトは「私の思考は私の存在に帰属する」ということではないか。じっさい、スピノザなどは、コギトは三段論法的な証明ではなくて、「我は思惟しつつ在る」という風に読み替えます。

コギトから無意識へ

しかし、「私の思考」と「私の存在」は別だ、近代的主体としての私はフィクションだと疑う、つまり懐疑する主体という概念を懐疑する、という方向で進んだのが、ポスト構造主義のような現代思想です。どういうことでしょうか。

たとえば、ラカンのような精神分析的な立場から見ると、コギト的主体というのは意識の領域ですが、それとは別の無意識の領域を考えるわけです。素朴な事実として、夢の中では懐疑しませんし、言い間違えなどで意識の統御を離れる場合があるでしょう。つまり、一時的に私を失っているような状態がありえ、そこで他者が侵入するわけです。

あるいは、デリダなら、私の存在と思考を乖離させるエクリチュール(文字)という概念を考えるわけです。声なら私の思考と距離が生まれませんが、作家が死んだ後でも、文字という形でその思考(の痕跡)は残るわけです。そして、声も録音すれば残るからエクリチュール性は全ての記号に潜在しています。

そして系譜的には、ラカンデリダハイデガー存在論を経由しています。そこでは存在が言葉に依存*4しています。無意識も文字も言葉の形態です。つまり、「方法的懐疑」というのは、言葉というOSがインストールされているから可能だというわけです。そして言葉は、「私」が生まれたときに自力で発明したわけではないですから、言葉とは他者の言葉なのです。

他にもフーコーなら権力とか、色々ありますが、コギト的主体のようなものが、普遍的真理に見えて、実は特定のハードやソフトに依存している、その隠蔽された構造なり構築物なりを暴露し解体し再構築する、つまり「脱構築」する、というのが現代思想の大きな潮流*5です。

権利的な私と事実的な私

…あれ? コギト的主体は、属性に左右されないのではなかったか。それなのに、いつのまにか、属性・条件によって成立が左右されるようになってしまいました。こういう問題については、哲学者の中島義道氏による、コギトは「権利的」な私なのだという再定義をすれば、形式的には一応解決するでしょう。どういうことか。

確かに、私は四六時中つねに思考してるわけではなく、睡眠中や泥酔中のときは思考能力がありません。しかし、眠って意識がない間も私とみなしています。それは「責任者」が四六時中つねに現場にいなくても、責任が帰属するのと同じような約束事です。だから、権利的な私が成立していることと、事実的な私が成立していないことは両立するのです。

最後に振り出しに戻ると、私が変身したときに、人間以外のものに変身したら、普通は懐疑する思考能力を失ってしまうのではないでしょうか*6。「マトリックス」的仮想現実は演算能力に左右されるのではないでしょうか。そこでは権利的な私も疑わしいかもしれないし(例えば動物に権利的な私を認めてよいかどうか)、線引きが揺らいでいく。そのように考えていくと、私の位置付けはやはり難しい。

……だがしかし、正解があるわけではなく、むしろどう問題を形成していくか、という際限のない過程が、哲学なのです。

*1:東京大学大学院総合文化研究科教授

*2:ちなみに「コギト cogito」はラテン語の翻訳ですが、話が複雑になるので翻訳の問題は省きます

*3:上でしたトートロジーに似ている

*4:後期ハイデガーは存在と言葉の関係を考えていったが、トラックバックの指摘にあるように、「存在論的認識」が言葉に依存している、といった方が正確かもしれない

*5:あまりに普及していないジャーゴンなので注に回すが、「アプリオリズムからアポステリオリズムへ」と言ってもいいだろう

*6:まあ文学は人間に興味があるので、大抵は擬人化したりして思考能力を与えてしまいますが