まず、あなた自身が他人を甘えさせてあげてください

生きる<普及版> [DVD]

子供は他者

しかし、大人になってもまだ、この真理がわからないひとは大勢いる。

 ひとは、ひとに頼ってもいいし、甘えてもいい。泣いても、わめいてもかまわない。不完全でも、不十分でも、他人に迷惑をかえてもいい。そのままで生きていっていい。ただひたすらに耐えてばかりいると、心が歪み、たわみ、ねじ曲がっていってしまうから。

もし、上の主張を単体で出してきたら、ずいぶん賛否が分かれそうな内容だ。だが、引用元では、小学二年生の作文に代弁させることで、批判を免れている。子供はともかく、子供を利用する大人は感心しない。

確かに、完全に自力で書いたなら、天才児だとは認める。ただ、邪推ではあるが実際には大人の手が入っていそうで、その場合は、ずいぶんベタな感動話に仕立て上げたなとは思う。

それなのに、かっこうにだめなじぶんを見せられて、そのだめなじぶんにカッとなって、そのむしゃくしゃをかっこうにぶつけてしまったんだと思います。

これは、投射による防衛機制のロジックだ。心理学を学べば誰でも知っている。

いや、大人は関係ないとしても、全国の作品から選ぶコンクールは、優秀な作品を選別する機能がある、ということだろう。それ自体は別に悪くない。ただ、そのごく一部(優秀賞)の子供は優れているけど、子供全員が同じということでは決してない。

それに、あくまでも子供が書いたからすごい、ということだ。だって、オッサンやオバサンが、同じようなことを言ったら、感動しないでしょ。しますか? ほんとうに? TV界では子供と動物は視聴率を稼げるから好まれるけど、そういうことだ。

子供は他者のポジションにある。もし自分で言ったら叩かれてしまうことを、他者である子供に代弁させて、感動のリビドーに変えてしまう。そうした感情貿易は、電通が大の得意の手法である。つまりはそういうことだ。

「生きる」

しかし、大人になってもまだ、この真理がわからないひとは大勢いる。

 ひとは、ひとに頼ってもいいし、甘えてもいい。泣いても、わめいてもかまわない。不完全でも、不十分でも、他人に迷惑をかえてもいい。そのままで生きていっていい。ただひたすらに耐えてばかりいると、心が歪み、たわみ、ねじ曲がっていってしまうから。

こんなことを言うと、また「ポジティブな生き方を否定する〜」だとか言われかねない。だが、先手を打って言っておくと、それは間違っている。むしろ逆だ。引用元が言っていること自体はきわめて正しい。だから、否定しているわけではなく、むしろ「ポジティブに生きればいいよ」、実践しろという肯定的な後押しなのだ。どういうことか。

…あなたが最近一番頭に来た迷惑な状況で、憎たらしい相手に甘えさせることができるか。できますか? ほんとうに? 私もそうですが、まっぴらごめんじゃないですか。そして、私やあなたが別の誰かに同じように思われている可能性もあるでしょう。だから、助け合える世の中にしたければ、まず人に甘えさせて見本を見せる必要があります。

小学生の作文にポロポロ泣くような虚構に感化されやすい人が、現実では「他人様に迷惑をかけるな!」「いい歳して甘えるな!」と、周囲に怒鳴り散らしている可能性はないか。いや、「自分も他人も甘えない」か「自分も他人も助け合う」状態を目指すなら、相互性と一貫性があるので全く構わない。だが「自分は甘えるが他人は助けない」という状態は最悪だ。

もちろん、人を決め付けるようなことはしない。(読んだばかりなのでこれからで構わないが)感動したからと各自が実践するのであれば、それはとても立派なことだから、全く文句のつけようがない。ただもし、明日からコロッと忘れて、「これはお話だから…」ということなら、ああ現実への適用じゃなかったのだなと思うしだいだ。

最初の記事のはてブが伸びるのは、リーズナブルな方法だからだ。でも、現実で他人に甘えさせるのは、そのうち何%か。たぶん、コンクールで優秀賞を取るくらいの確率なんだろう。そして現実はたぶん変わらない。それはつまるところ、「生きる」の終盤と同じことなのだ。大人の感動には凡庸な幻想があるが、その幻想を通り抜けたところに、歴史に残る名作がある。

関連記事

関連書籍

「甘え」の構造 [増補普及版]

「甘え」の構造 [増補普及版]