名づけの思想

閲覧者の意識が「中の人」にあるのか、「サイトの情報」にあるのかということです。テキストサイトのように「中の人」にある場合は、必然的に「中の人が書いているサイト」だから「【サイト名】+【運営者名】さん」になるでしょうし、「サイトの情報」にある場合は、基本的に「サイトさえあればよい」のだから「【運営者名】は【サイト名】と同一視される」というか「運営者はサイトと溶け合っている」というか、そもそも、そういった「区別をする必要がない」ということでしょう。

人物以外のさん付けの起源は、インターネット登場以前に遡る。「○○会社さん」「○○会社の営業さん」という言い方は現実社会で流通しているだろう。しかも、「お偉いさん」「お役所さん」「お相撲さん」「旦那さん」「奥さん」「おしゃれさん」「おちゃめさん」「観音さん」「お地蔵さん」「ご苦労さん」「ありがとさん」のように、実に多くの言葉にさんを付けることができる。

後半はほとんど擬人化しているが、もともと日本は、「八百万の神」のように擬人化するのが好きな風土がある。妖怪にも物起源のモノがいる。「物」と「者」を同じ「モノ」として同一視するから、物にさん付けする心理があるのかもしれない。それでは日本だけが特殊なのかといえば、「It rains.」のような形式主語だとか、無生物主語の発想は外国にもあるだろう。

「物」を「者」に格上げするだけでなく逆もある。「メガネ」「ジャージ」など、あだ名は固有名を一般的な物の名前に還元してしまう。それは、固有の人格として扱わない、つまり取るに足らないモノとして見ていることであり、つまり擬物化である。軽蔑の意が含まれるので、公の場で呼ぶに相応しくない。

だが、あだ名には親近感が込められることもある。「赤シャツ」と違って「赤ずきん」はそうだろう。そして、物のさん付けと者のあだ名は、共に私的感情の名前空間に位置付ける意味があるのではないかと考える。対して純粋な固有名・一般名は公的意識の下で使われる。あだ名は比喩(赤ずきんは換喩)として捉えられるだろうが、比喩は記憶の容量を節約するだけでなく、連想のネットワークを形成して、自分の意味空間を豊かにする。

このブログではキャラクター化をオブジェクト化として捉えている。すなわち、対象に一元化(mono化)することによって、情報処理の効率が良くなると考える。モノをキャラクターとして見るのは、人間的な営みであると同時に、自然の理にも沿っているのではないか。つまり、認知的なヒューリスティクスの側面があると思う。

ところで、これらはただの言葉の綾であり、しょせんは気の持ちように過ぎないのだ…、という感想を抱くかもしれない。ところが、それだけでもない。会社法によると、会社は法人とする、としている。法律も自然人とは異なる法的人格を認めているのだ。人格が認められているなら、さん付けしてもそうおかしくない。

最後に、更に深く考察しよう。法人は、権利を処理するための規約的な存在なので、受容しやすかった。だが哲学では、これと逆方向の問いをする。それは、擬似的な人格もあるというより、そもそも人格が擬似的ではないのか、という根源的疑問だ。「私」という個の存在が独立していて、自分で自分の行動を決定しているというのはフィクションかもしれない。

そして、ネットをやっていると、実はあるWebサイトはロボットが自動更新しているかもしれない、という懐疑は拭えない。そういうときに、実在の人物を想定する、いてほしい、という考え方と、実在の人物が不可知であっても構わない、文章で勝負だ、という考え方がある。だから一番最初に戻って、ユーザ名で呼ぶのは実在論的な、サイト名で呼ぶのは観念論的な、発想が無意識にあるのかもしれない。