なぜ恋愛は儚くも切ないのか

恋は気付くもの

でも、人は別に、理由のために恋愛するのではなく、いつのまにか好きになっちゃっていて、恋愛するわけです。
で、なぜ好きになったかというのは常に事後的に、言語的な限界のなかでしか語れないから、語ってもそれは、恋人の性質とか情報とか、二人の関係性を挙げることしかできなくて、それは、「あの人が好き」ということの説明にならない。

全く仰る通りです。恋愛が発生した理由は事後的にしか語れません。事前に「これからあの人に恋をしよう」と意図的に恋愛を決定することはできない。恋は気付くものです。そして、語るものではなくて、行為と態度で示されるものでしょう。

また、鏡像というのは原理的な話で、実践とは天と地の開きがあります。ホストは女性の幻想の対象になろうとして、常に尋常でない努力を払っているでしょう。だから、誰でも恋愛に成功するという話では全くありません。むしろ、恋愛の条件は不定なので、必ず成功する保証はありえない、という話です。

「君は僕の鏡像としての交換不可能性であるゆえに君を愛している」

もちろん、こんな台詞を言えば、奇妙な印象があるでしょうが、「世界で君しかいない」「二人だけの世界」「あなたはかけがえのない人」「お互いに一番大切な人」…などと言えば、受け入れられるでしょう。同じことを言い換えたわけです。

固有名の剰余と鏡像の反射

大澤真幸が言う「恋愛の不可能性」は、固有名が確定記述に還元できないこと*1に並行して考えられています。その固有名の剰余は、既に考慮しています。だから鏡像の比喩を使ったわけです。鏡像関係は既に剰余を内包している。どういうことか。

片想いの場合ですと、相手の鏡像にナルシシズムを投影するだけです。「恋に恋にして憧れ焦がれ」の状態で、まだ相互性が生じていません。しかし、両想いか、少なくとも相互のコミュニケーションが成立している状態では、両方鏡なので合わせ鏡になります。

合わせ鏡は原理的には無限に反射するので、語りつくすことはできません。恋愛が吸い込まれるような深い奥行きを持っているのは、合わせ鏡の際限のなさと同じです。そして、反射した像が見えないくらいに小さくなっていって収束した点が固有名です。

「どうしてあなたはロミオなの?」の問いに対して、もしロミオはかくかくしかじかの属性を持つから好きなのだ、と言っては情熱恋愛のロマンチシズムが失われますが、この属性という面積を持たない抽象化された点、「ロミオはロミオである」としか言えないような極限的な点が固有名であり、恋愛の対象なのです。

言語の欲望と恋愛の幻想

逆に云えば、内省的・言語的な欲望から離れているとき、その愛はずっと継続するのかも知れません…。

しかし、これは全く逆に考えます。言語的な欲望の主体として成立することで、主体の欠落と対になる形で、魅惑的な幻想の対象が機能するわけです。対して、思春期以前の子供が恋愛を理解も実感もできないのは、性欲・性器に一元化されない、前言語的な多形倒錯的な欲動の存在だからです。

なぜ恋愛が個人の実存にとって切実なのかというと、主体が欠落しているからです。この不在がない恋愛は「恋愛ゲーム」と呼ばれて、純愛とは別のカテゴリになります。主体の欠落は言語的欲望によって構成されます。端的には「(社会的に)私はXではない」という否定の徴で示されます。

情熱恋愛が成立するのは、欲望を持つ主体だからです。しかし、現実には欲求の次元に留まる必要がある場合があります。例えば、安定しているサラリーマンと結婚しようだとか、そういう話です。それは言語か非言語かというより、打算と妥協の話です。情熱というのは夢中な状態でしょうが、情熱だからこそ熱が冷め、夢中だからこそ夢が醒めるわけです。

だから、恋愛関係は、たとえそれが幻想であっても、リアルな幻想なのです。「痛みを知らない子供」も「心をなくした大人」も、儚くも切ない恋は実感できない。それは、恋愛関係が、自己の精神的傷、それを代償に成立しているからです。傷が恋を求めさせるのです。

*1:元々はクリプキの考え