東浩紀・桜坂洋『キャラクターズ』批評

新ジャンル「キャラクター私小説

新潮 2007年 10月号 [雑誌]

新潮 2007年 10月号 [雑誌]

「新潮」(2007年10月号)で発表された、東浩紀桜坂洋『キャラクターズ』についての批評感想を書く(以下ネタバレあり)。この作品を位置付けるとすれば、私小説とキャラクター小説の中間的な存在の、「キャラクター私小説」というところだと考える。しかし単に、作者やその知人を面白おかしくキャラ化しようとしただけではなくて、近代文学に対する明確な戦略を持っている。どういうことか。

例えば作中でも言及されている佐藤友哉のようなライトノベル作家*1文芸賞を取るには、キャラクター小説を私小説化する必要があるのだという。その理由は、文芸誌さらにその読者の近代小説観が、「私・性・暴力」といった要素を重視しているからだと説明される。なぜ重視されるのかといえば、それが近代的なシステムだからだろう。

イメージ・シンボル・リアルの三つ巴

暴力を死と読み替えれば、「私・性・死」の要素はいずれも、遠近法が消失点によって構成されるように、システムを構成する例外的な特異点なのだ。これは、使用価値を持たない貨幣が市場を構成する構図に似ている*2。さらに、この三要素は、想像的な性・象徴的な死・現実的な私、という風に、作中の「ボロメオの輪」に対応するだろう。

もっとも、小説においては内容が想像(I)・構造が象徴(S)・文体が現実(R)だ、というのはまだしも、三食パンのように多重人格にI・S・Rを振り分けるというのは、それが単なるラベル的用法だとしても、批評が作中に混ざっている以上、斎藤環であればラカンの三界概念の濫用だと指摘するのではないか。三界の区分は座標軸のような位相的区分であって、別々に実体化したりはしない*3

カタルシスナルシシズム

つまり、キャラクター小説(ライトノベル)の私化を反転して、私小説をキャラクター化し、「私・性・死」の近代文学(観)を解体・再構築(脱構築)しようとする、というのが東と桜坂の戦略だろう。そのような試みが(大江健三郎の連載の最終回が掲載されているような)現実の文芸誌で行われていること自体が、既成の型にはまらない「出来事」であり、参照されている固有名へのジャーナリスティックな興味が多くを占めるとしても、新しい何かの幕開けを予感させて、非常に面白い。

しかし、その試みが成功したかといえば、微妙である。東のナルシシズムの強さが、キャラクター化を不完全なものにしているからだ。どういうことか。物語は便所で始まり、途中で主人公が排便を我慢する様子が描かれる。これは作者が心情を吐露したいというカタルシスの遅延だろう。本編中で東に明確に対立する(できる)のは、便所掃除をしている映画技師*4くらいしかいないのだが、主人公の東にとっては、排便=カタルシスを邪魔する存在でしかない。

便所掃除の映画技師は、東が指摘する都市の工学化は表層的な問題であり、昭和の利権構造が未だに生きていると批判する。東が排除した地方的なもの・DQN的なものが回帰している。だが、主人公との間でコミュニケーションは成立せず、映画技師に暴力を振るわれている状況を解決するのは、モノトーンの女*5と携帯電話(の魔法)である。これも排除したものの回帰で、ホモソーシャルを自覚しているが、じっさい女性(他者)の視点がない。バフチン的な意味での対話はなく、文字通りに分裂した三人のキャラクター、および二人の共著者間の、内部的な対話しかない。これが、固有名の描く思想界の地図と共に、読者の領域性をもたらしている。

動物とメタの二分法

この小説では、東がロリを望めばロリ(とタンクローリー)がやってくるように、基本的に全て東の思い通りに事が運ぶ。それは例えば、「ひぐらしのなく頃に」終盤の、超越者の出現と予定調和の退屈さに似ている。ひぐらし陰謀論的組織が、倒すための仮の超越者でしかないのと同じように、この作品における朝日新聞(的なもの)もそのような藁人形になっている。

これは、メタ化=ゲーム的リアリズムという構想・仕様・設計なのかもしれない。しかし、データベース化・動物性かメタ化・アイロニー人間性か、という二分法は避けたい。それでは複数的超越性か単数的超越論性の二択になってしまう。東が『存在論的、郵便的』で発見した画期的概念は「複数的超越論性」だったはずだ。もちろん、この説明ではあまりに抽象的に過ぎて分かりにくいだろうから、最後に作品に即して言おう。

キャラクターの成立とゲームの条件

「キャラクターズ」というからには複数のキャラクターが必要だが、実際に読むと、単数の私=東がずっと特権的な地位にいる。その単数性は、多重人格的に分裂したり、小説と批評を並列したり、共著にしたり(しかし共著者は物語内で途中で死ぬ)、といったことでは解決しない。作品に登場する膨大な実在する人物の固有名は、そのほとんどが現在の東の視点から語られており、キャラ立ちしていない。

素朴な意味で、ゲームがゲームたりえるのは最低限のルールがあるからで、そのルールは他者が逸脱を指摘できるものでなければならない。ゲームのルールを一人のプレイヤーが思うがままに変えられるというのは、言語ゲームにおける私的言語のように、他者に流通する力を持たない。要するに自己完結的である。

それはキャラクターにも当てはまる。キャラ立ちするのは「○○はそんなことしない」という風に読者が思えるようになるときだろうが、「キャラクターズ」の固有名は、(それがスキャンダラスで面白くても)未だキャラ立ちしていない。全て東の視点で見ているため、(それが虐殺のように派手であっても)風景のように静的に固定化されている。

だから、作者の東を中心化・特権化するのでは、柄谷の『探求I』の転向以前の、内省に退行してしまう。私の感想としては、便所の描写に凝ったり、分裂を複雑にするよりも、単に複数の人物が動く物語が欲しかった。戦略歴史ゲーム「信長の野望」で、信長が主人公だが他の戦国大名も同じように操作できるように、「東の野望」を描くにしても、様々な他の作家を魅力的に描いて、その闘争の中でなお東の思想が、読者によって、選び取られるような作品だったら、傑作になったと思うのだ。

*1:何が近代文学ライトノベルかといった話は、ここではとりあえず作中の分類に従っておく

*2:東の概念で言うと「否定神学システム」になる

*3:だから上の分類は大雑把なもので、正確に分ければ、「私」だって、想像的な私(意識)・象徴的な私(固有名)・現実的な私(身体)のように三つに分けられる。「性」や「死」も同様。

*4:おそらく阿部和重の作品の登場人物を参照しているだろう

*5:おそらく桜坂の小説の登場人物を参照しているだろう。だから、阿部との闘争を桜坂が救うという、実在の人物の状況を反映しているようにも解釈できる