オタク・サブカル・エヴァンゲリオン
オタクとサブカルの差異
オタクとサブカルの違いは何か。サブカルはメインに対するカウンター性があるが、オタクにはそれほどない。また、サブカルはメジャーに対してマイナーではあるが、市場からはみ出す個性と表現性を重視する。一方オタクは、個々の作品の制作者の個性よりも、お約束すなわちそのジャンルのコードを重視する。ただしその約束事はマニアックなまでに追求する。例えば、コミケの絵柄がハンコ絵でも、その微妙な差にこだわる、という感じだ。つまり、サブカルは革新的ならオタクは保守的なところがある。
エヴァンゲリオンの境界性
そのように両者は相容れない。しかし、大流行したアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』は、オタクとサブカルの境界線上にあった。その境界性がオタク・サブカルさらに一般にまで浸透させた力だと考える。大雑把に、エヴァは物語の前半がオタク的で、後半がサブカル的だろう。後半特に終盤の破綻は、作家の表現を支持するかどうかで意見が分かれたのではないか。(パンク)ロックでギターを壊すような感じだと捉えれば、破綻すること「によって」表現できることもある。ただし、ウェルメイドなのが良いとされるテレビアニメでそれをやったのが事件だったのだ。
BLUE ON BLUE(XPD SIDE) - ヱヴァに対する庵野秀明の意図と「ぼくら」の受容の形態
そして、それはぼくも同じだ。懐疑的な視線を向けてはいるが、所詮「ヱヴァ」という作品を、あるアスペクトから――つまりは懐疑的なアスペクトから「消費」し、それと「戯れ」て、実際に庵野のメッセージと向き合うことなど、まずないだろう。それはすでに旧劇場版エヴァですましてしまった。このヱヴァというムーブメントに対しては、もはや「消費」と「戯れ」以外に向き合う態度は存在し得ないのだから。
だから、エヴァ終盤から劇場版が、オタク的約束からサブカル的表現への脱出なら、新劇場版の「ヱヴァンゲリヲン」は、サブカル的表現からオタク的消費への回帰になる、という流れが予想できる。かつての境界性・越境性が、エヴァ内部の境界性・越境性(エヴァとヱヴァ)に縮小再生産することと、「ヱヴァンゲリヲン」自体がウェルメイドな良作になることは全く矛盾しない。それがかつて熱狂した者に複雑な態度を取らせるのだろう。