非モテ論「愛に見返りを求めるかどうかの議論の続き」

恋愛における相互性の欠如

見返りというのは(〜)相互性であって、見返りを求めないということは(〜)「与える」ということなわけだね。(〜)手元に戻ってこない可能性がある。それでもやるんだよ!ということですか。(〜)その結果自体が見返りになるということでいいんだね?

http://fragments.g.hatena.ne.jp/nisemono_san/20070801/1185950202

そうです。非モテは愛に見返りを求めてはいけない、というのが前の話の論点でした。

なんでそれほどまでに「好きになること」ということを先に持たせるのか意味がわからないのよね。

「相互性」は「ギブアンドテイク」とでも言い直せば、常識的に流通している考えです。ですが、まず文脈として、「与える」とは、物質的な話ではなくて精神的な話なんですね。物質は無くなってしまいますが、精神はあげたから無くなる、というものでもないでしょう*1

また、相互性を追求していくと、最後は市場制度に行き着くと思います。つまり、風俗やエロゲですね。それらはパッと見は高価なように思えても、本当にモテになるには百万円単位の投資が必要なことを考慮すると、相当コストパフォーマンスが良いでしょう。市場は交換の場所だから、ある意味当然です。しかし、ファーストフードと同じで、それらは精神的肥満の原因になります。そもそも、相互性が成り立たなくても良い、というような感情が、恋愛感情なのです*2

だから、非常に乱暴に言えば、減るもんじゃないし、ケチケチしなくてもいいじゃないか、非モテは他に与えられるものがないわけだから、コミュニケーションくらい富豪的な態度を取ってもいいじゃないか、という話です。ちなみに、それはさしあたり、例えばキモがられても拒絶されてもニコニコしよう、という程度のことで、生活が破綻するほど相手に貢げ、とか地位を捨てて破滅しても不倫しろ、という話ではありません。

欲望における選択性の欠如

「好きになるということは選択できるのか」という問題があるわけね。
(…)
「欲望の選択性」なんてないわけで、だからこそ欲望というのはリアルなわけだよね。

その通りです。欲望が発生していることに事後的に気付く、という形になります。

「好きになってしまう状況というのがあるし、それを認めてしまったほうがいいよ」という言い方のほうが正しいのではないかなー

そうです。意図的に自然な恋愛感情を発生させることはできませんが、例えば声を掛けるとか、そういう積極的な行為は意図してできます。もっとも、恋愛は素晴らしいからどんどん行動して、「アセクシャル」は直すべきである、とまで言いたいわけではありません。例えば、見返りを過剰に求めるため最初の一歩が踏み出せない、など特定のハマりやすい心理構造を指摘しているだけです。方法論を採択するかしないかどう使うかは、自由です。

*1:承認の供給不足だとか、感情労働の問題のように、社会学では可視化しますが、それは統計的スケールから見た話で、とりあえずここでは別の話にしておきます

*2:ただし結婚は恋愛関係のみで成立するわけではないので、互酬性のレベルに落とし込む必要があります