「深夜アニメ的正しさ」の不透明化と「金月龍之介的正しさ」の不成立

冲方丁的正しさ」「深夜アニメ的正しさ」「まなびストレート!」論の概要

私は、ufotable作品を批評する際には「冲方式でも深夜アニメ式でもないこと」自体を評論の対象にしてはどうかとご提案する次第です。

Something Orange -  「深夜アニメ的正しさ」は深夜アニメ的に正しいか?

 第一に、基本的に冲方丁個人の才能と実力で執筆されているはずの小説作品と、集団製作のアニメ作品を同列に置いて語って良いのか、という問題がある。

 第二に、本当に冲方丁の小説は「成功」し、かれが製作に携わったアニメ作品は「成功」していないのか、そこが曖昧である。

 第三に、「深夜アニメ的正しさ」を備えた作品はそれほど「成功」しているのか、そこも疑問である。

 そして、第四に、これがいちばんいいたいのだが、『フタコイオルタナティヴ』を「書生的な生真面目さ」が見られる作品と言い切ることは無理があるんじゃないかな。

冲方丁的正しさ」と「深夜アニメ的正しさ」というふたつの「正しさ」を、対極の対立概念のように捉えることには違和感がある。

「深夜アニメ的正しさ」はあるのか

反論の論点は既に出ているが、もう少し具体的な話をしよう。以下は商業的な側面から述べていて、作品の表現としての価値とは別である。

まなびストレート」のアニメDVD売上(1巻初動)を「1ufo」とすると、「ひだまりスケッチ」の初動売上は2ufo強売れている。「蒼穹のファフナー」は2ufo弱売れている。「まじかるぽか〜ん」は1ufoに満たないが、「ゼーガペイン」も1ufoに満たない。「ひだまりスケッチ」は実は「ぱにぽにだっしゅ!」「ネギま!?(特に後半)」と大きく違わない。「ハルヒ」は10ufoの売上があるので、桁違いに売れている。しかし「コードギアス」は更に売れていて、現段階では「ガンダムSEED DESTINY」と同等かそれ以上の勢いがある。

これらは大雑把かつ一面的な数字で、初動と累計では違うし、1巻と後半の巻でも違うし、実売とも違うことに注意したい。その上で言えば、「深夜アニメ的正しさ」は怪しいのではないか、もっと言えば朝〜夕のアニメでも怪しいと思われる。もう少し丁寧に言えば、この時間帯だから売れるとか、正統的な物語だから売れるとか、萌え美少女を前面にしたから売れるとか、そういう分かりやすい基準は、もちろんないわけではないが不透明になっており、価値観が多様化した視聴者・消費者*1に対して、どれだけ的を絞ったかだと考える。深夜オリジナルのコードギアスが、ガンダムシリーズの作品*2と対等に勝負できたのだから*3

要するに市場が多様化して、マッチングが焦点になっている。これは、プロレスから格闘への流れに似ているかもしれない。関節やハイキックが決まると1分で試合が終わってしまうことがある。それと同様に、物語とか更には美少女そのものですらなく、例えば最初のOPの1分30秒で勝負が決まってしまう、といった方が実感に近い。動画サイトのMADが盛り上がると、キャラへの萌えが後からついてくる。「フタコイオルタナティブ」も「まなび」も疾走感のあるOPだが、「ゴスロリ仮面」がOPで踊るとかした方が売れたかもしれない。冒頭のエントリでは、物語にしろ萌えにしろ、深夜アニメ単体ではなくて、ネットなど他メディアの関連の要素を見落としているのではないか。

金月龍之介的正しさ」はなぜ成立しないのか

今までufotableの作品は、根強いファンがいながらも商業的にはそれほど成功したわけではなかった。「まなびストレート!」の初回を見たときは、幼いキャラデザインと、グラデーションで淡い塗りのクオリティが高いので、成功しそうな予感があった。それが失速したのは、おそらく中盤〜後半の主人公たちの葛藤だろう。学生運動や署名活動といったモチーフは全く最近の深夜アニメに向いていない。キャラデザが「ぷに」気味なのに、シナリオではキャラが地味に悩む、という風に分裂してしまうと中途半端で受けない。まるで萌えのオブラートに包んだ、とまでは言わないが、嫌いなピーマン(表現的・実存的なもの)の味付けを何とか工夫して食べさせよう、と視聴者が感じてしまったのかもしれない。

まなびストレート!」で一番リアルなのは、愛光学園の理事長が主人公に対して突きつける疑問である。主人公の学美たちが企画する学園祭は、実は学園の生徒たちに支持されていないのではないか、というものだ。旧態依然とした学園に自由をもたらす転校生・新入生という類型は学園物でよく見掛けるが、ここでは反転している。つまり、古き良き学園像に固執しているのは学美たちであり、改革者は理事長の方である。近未来の設定でありながら、全体的にノスタルジックなので、学美に超越者的なカリスマがあった、で最後まで通しても良さそうなものだが、正直に主人公たちを悩ませてしまい、しかもではもの凄くリアルなドラマだったかと言えば、何となく予定調和的に成功したようにも感じる。

もちろん「集団制作のアニメ作品」を一人の作家だけに帰することはできないが、シナリオから見たときに金月龍之介の色が濃いことは否めない。そして、「ジサツ」の頃からカルトなファンがついていたが、商業的に(大)成功したというわけではない*4。「ジサツ」の結末は破綻していたが、そういうことまで含めて消費的ではなくて表現的だと言える。そして、「金月龍之介的正しさ」があるのではなく、常に正しさを求めて悩み失敗する*5、という不成立の過程のみがあり、しかもそれが魅力になっているのではないだろうか。学園の生徒に支持されず悩む学美たちの姿は、古典的な表現者としての自らを示しているのかもしれない。

*1:このフレーズ自体は飽きるほど聞くだろう

*2:SEED以降大きく路線が変わったとはいえタイトルを冠している

*3:ただしどちらもサンライズ製作なので、そこに要因があるとは考えられる

*4:公爵の第二作は無期延期。もっともスタッフの都合など色々な要素があるので一概に言えないが

*5:あるいは何となく成功する