ブログを書くときに気をつけていること

はてなの某ブログに炎上の兆しが見られるのだけど、人のことを言う前にまず自分がどうなのか考えてみた。このブログを書くときに心がけていることが幾つかある。


批判はどうか。例えば「○○は糞。見る価値なし」とまで決めつける風には、書かないようにしている。特に萌え系は個人の趣味が出やすいので、独断的になりやすい。もう一つは、なるべく順位・格付けを避けている。別に「その筋の玄人」とかではないので、ランキングしても権威など全くないからだ。


好き・嫌いを言うときでも、例えばこのアニメのOPテーマよりEDテーマの方が好き、だとか、なるべく淡白に書こうと思っている。(「どうしてこんな変な○○を信者は支持するのか〜」とか嫌味にならずに)どうしても強く批判するときもあるけど。


嘘はないか。あからさまに意図的なものはともかく、Aの周辺について言及しながら、A自体に精通しているかのような印象を与えることはしがちである。わざわざ「私は○○を知りません」と言うことはあまりないからだ。


これは下駄を履かそうする場合もあるが、悪意がなくても結果的にそうなる場合というのもある。出版バイアスというのがあって、例えばデータ自体に誤りがなくても、意図に合うデータが来たときに出版するなら、結果的には現実の像と齟齬があるだろう。


誇張はないか。上でPS3へのパロディみたいな文章を書いておいて何だが、私はグランツーリスモシリーズは大変素晴らしいと思っている。あの物理シミュレーションの技術力も凄いし、ロケや実車の権利関係なんかも大変そうだし、何より単に車が走る様が美しい。


よくグラフィックはゲームの本質に関係ないなどと言うが、PSのポリゴンはゲームを一変した。2Dと3Dの格闘ゲでは全然違うし、FF6FF7の間の距離は、たぶんシリーズ中一番大きい。PS3の映像も、単に見てみたいと思う。


ただ、SFC時代にソフトが一本一万円というような時代があって、クソゲーをつかまされてひどい思いをして、その後のPSが何はともあれ値段を引き下げたのは賛同したので、違和感を感じた。情報家電戦略とかいっても、子供に買ってあげる爺さん婆さんの層には、まだまだ浸透してないと思うし。だから少し誇張はしているけれども、実感には基づいている。


とにかく本当は単純ではないんだけど、でもあえてそう書くことにした。ゲームに限らず単純化して書くことには暴力的な面もあるけれど、そもそも言葉と言うもの自体がそういう仕組みになっているので、「すべてをありのまま」に写すことはできない。それは現実そのもの以外にない。


ところで蛇足だが、「クソゲー」はよく言うが、「クソアニメ」「クソマンガ」(漫Fの「くそまん」はあるが)はそれほど聞かない。やはり高い金を払い、しかも事前にあまり体験できないというメディアの性質が大きいだろう。アニメは無料で放送するし、マンガは単行本の前に雑誌連載がある。ゲームは単価も高いし、体験版も昔はなかった。


だからゲーム業界の人は、「ゲームに偉そうにケチをつけるオタがたくさんいやがる」というよりも、高いゲームを買って褒める人は本当に褒めているのだ、という風に捉えてほしいと願う。こんなとこで言っても仕方ないことだけど。だいぶ脱線してしまった。


出発点が素人なので、『失敗学』(この本自体への安全工学からの批判もあるが)ではないけれど、できれば失敗を記していければいい。しかし、そんなことをしたらブログの価値が下がってしまうのではないか? と不安になるので、なかなか難しい。自虐にも走らず、なるべく素で書ければいいと思っている。


このブログで人気があった過去の記事たちは、どちらかというと肩の力を抜いてすっと書けたものだ。力むと時間ばかり掛かる上にあまり読まれない。それは「○○しなければならない」という使命感で書いているので、読む方は退屈なのだ。それは言わば計画経済的な文章のつまらなさである。


もちろん書きたいことは出発点で、受け狙いで書くということとも少し違う。いったん無心になって、書く側(自己)と読む側(他者)の需給のバランスを無意識に調整するということだ。無意識は意識的に操作できないので、結果的にすっと書いたものになる。いつもそうできればいいが、欲が出ると意識してしまってダメである。(ちなみに推敲は別)


一言で言うと、書くときにいったん自分を空っぽにするということだろうか。書きたい書きたいというのは自己をこう見せたいという願望に由来することが多い。だからといって受け狙いに回るのでもなくて、文字の市場・言葉の運動(組合せの可能性)に身を任せてみることによって、むしろ書きながら書きたいことを発見するということだ。