なぜ人は幸せの前に足がすくんでしまうのか

幸せになれそうと思うと臆病になる(REVの日記 @はてな)


特に親しい人が挙げるわけでもない結婚式と葬式とでは、葬式の方が晴れ晴れとした気分になることがある。もちろんこれは自分と比較しているからかもしれない。葬式の参列者は、ただ生きているというだけで「死んだら負けだと思って」いたり、「今の自分は勝っていると思う」のだ、ということもできるだろう。


だが古代から繰り返し観られている悲劇はどうだろう。これも自分はあれほど酷い状況ではないといって優越感に浸って楽しむのだろうか。むしろ観客は悲劇の主人公に感情移入し、涙を流して感動するだろう。もちろんこれは物語が良く出来ている場合だが。ただ、感情を投影して登場人物に共感しているというのは、裏を返せば自己憐憫の感情に浸っているということではないだろうか。


それでは夜に見る夢、それも悪夢のことを考えてみるとよい。われわれは夢の中で様々な危機に陥る。例えばいくら逃げても追っ手から逃げられないとか。たいていはその状況も曖昧で誰が敵なのかもはっきり分からないのだが、とにかく夢の中では憐憫に浸っている暇はなく、ただ必死にもがいている。


フロイトは最初、夢を願望充足の装置だと考えていた。しかし、それならなぜこのような悪夢に繰り返しうなされなければならないのか。この問いが後期のフロイトの概念へと導くのだが、われわれは一足飛びにラカンへと向かおう。

ラカンによれば、不安は欲望の対象=原因が欠けているときに起こるのではない。不安を引き起こすのは対象の欠如ではない。反対に、われわれが対象に近づきすぎて欠如そのものを失ってしまいそうな危険が、不安を引き起こすのだ。つまり、不安は欲望の消滅によってもたらされるのである。

斜めから見る―大衆文化を通してラカン理論へより)


十分明確な説明だが、さらに簡潔に言えば、不安は「喪失の喪失」という事態であり、糸井重里のコピーである「ほしいものがほしい」ということでもある。目的地に到達することはその不在の対象を失うということでもある。遠足の日が来てしまえば、あれこれ想像することは出来なくなる。


例えば小説家になった人は、小説家になりたいという夢を抱くことはできなくなる。代わりにヒット作を出す小説家になりたいとか、歴史に残る小説家になりたいという風に新たな目的地を見出していく。ここにヒントがある。


足がすくまないためにはどうすればいいか、一つの方法としては、あくまで通過点に過ぎないと自制し、次の目標を見出すというのがある。それができず、「受験のための受験」「就職のための就職」「AのためのA」になってしまうと、いざAに向かうときに足がすくんでしまう。


CGコンプリートのためにエロゲをやっているときなどは、テキストをばんばんスキップするが、本当に好きな物語になるとクリックの手が止まってしまうようなこともそうだ。われわれは自分が楽しいか楽しくないか、成功するか失敗するかが全てだと思い込んでいるので、このような欲望の構造につまづいてしまうことがある。


前述の悲劇ほどではないが、(必ず)失敗するタイプの主人公が好かれる理由もここにある。近代小説の祖であるところの『ドン・キホーテ』のようなものから、もっと身近な『男はつらいよ』とかそのオマージュの『こち亀』だとか。その他のコメディにも似た構造がある。失うことによって得るのは欲望の明確な輪郭である。すなわち、穴が空くことで形がはっきり見えるようになる。


ただし、これらの喪失は毎話ごとにリセットされてしまうので、いつまでたっても成長しないという面がある(TV版のび太)。それにもちろん、そういう失敗する人物には幻想空間で親しむのであって、現実に身近にいたら、うざいだろう。


また萌え系の作品ではたくさんの女の子が出てくるが、そのことでかえって自分=読者が何を欲望していたのか曖昧になってしまうことがある。だから泣きゲは、古典的な悲劇へ回帰しているのかもしれない。あるいは現代版の残酷な御伽噺である。


ところで前半に出した例(葬式・悲劇・悪夢)はどう説明するのか。大体の察しはつくところでもあるのだが、このブログに(説明の)欲望を持って見続けてもらいたいので、あえて補完してしまわないようにしたい。そういうわけなので、また無意識で会いましょう。