茶人=アルファブロガーと「はてなの茶碗」
ネットワークは広大
前項でブログを家に喩えましたが、いくらでも増設できるという点では、ブログは「不動産」ではなくもっとバーチャルな財産でしょう。そこでより特徴的な比喩を用います。ブログは茶室ではないでしょうか。どういうことか。
戦国時代の頃の茶道と言えば秀吉と利休のような人物が有名ですが、光栄の『信長の野望』(武将風雲録から)でも茶器が登場します。もし例えば武将への褒美が土地のみであれば、有限なのですぐに尽きてしまいますが、茶器は信用を創造することができ、この問題を解決してくれます。
そして時は21世紀。ネット上の仮想空間は、文字ならほとんど限界を感じないので、そういう別の秩序の構築に向いているわけです。網野喜彦(ちなみに宮崎駿の『もののけ姫』の世界観も影響を受けているでしょう)に「無縁」というような概念がありますが、VIPにおけるニートなども、そういうモラトリアム空間で浮遊しているでしょう。
茶人=アルファブロガー
もちろん現実世界の有名人がアクセスを集めてしまうという側面もありますが、アルファブロガーは茶人のような独特な立ち位置なのではないかと考えています。直接の権力はないですが、特殊な権威を持っています。自民党がブロガーを呼んだとか、「ことのは」事件を見ていると、そう突拍子もない話ではないと思います。
さて茶人に求められる資質はなんでしょうか。ここで岡田斗司夫の『オタク学入門』を参照してみましょう。彼が挙げる資質は「匠」「通」「粋」の三要素が基本なのですが、ここでのわれわれの興味はむしろ「見立て」という要素にあります。それは価値の創造という点で、三要素と微妙に異なった概念です。(「見立て」云々の元ネタは西村文彦なので、やはり違う)
はてなの茶碗
岡田が本の最後の方で、「はてなの茶碗」という話をします。落語なのですが、水が漏れる完成度が50%の茶碗があって、しかしそれを茶屋金兵衛が「はてなの茶碗」と名付けます。漏れる水に趣きを見出したことによって、千両の値が付いてしまう。ここで、われわれが価値があると思うから価値がある、というあの物神的なトートロジーの構造を見出します。
オタクの萌えはフェティシズムの系譜にあるでしょうが、萌えの可能性をそういう価値の創造という側面に、私は見出すわけです。少子化でゼロ成長・マイナス成長の時代には、そういう付加価値に注目することに幾ばくかの合理性はあると考えます。ただし、萌えが本当に創造的批評になりうるか、単なる消費の欲望の追認なのかは、まだ分かりません。
創造・批評・可能性
そういう「見立て」の実例が、上記の記事でしょう。一見ダメなアニメに見えるが、実はこんなに高度な〜と、探偵のように謎を解きます(まあ謎解き自体はスレで行われているのですが)。私がブログに期待する機能は、こういう新しい側面の発見・発明です。批評は批判、さらには否定と同一ではなくて、作品の可能性を見出す力があります。
Amazon の FF のレビュー
今だからこそFF8 in 2003
FF12を巡るid:naoya氏の発言は印象に新しいでしょうが、FFに関しては「これはすごい」と思ったサイトがあります。「FF8」でググるとトップに出てくるのですが、FF8の最高の批評だと思っています。私はFF8を「ドローが作業的でかったるい」と感じて投げ出してしまったのですが、その印象を根底から覆されてしまいました。私も精進したいものです。