人間を支配する空気

まえがき

「空気を読む」というのは日本で生活する上できわめて重要であるにも関わらず、
明確に理論化したものを――私が寡聞なのもあるだろうが――さほど見かけない。*1


「空気を読む」は「言論の予測市場」
空気を読む
ネットでも「空気嫁」などというし、「空気を読めない結果村八分にされた」という
ような例は枚挙に暇がないだろう。自己保身するにはまず空気に従わないといけない。
日本は無思想・無宗教で有名だが、しかしだからといって抑圧が少ないとは限らない。


しかしこの、われわれ人間を支配する空気とはいったい何か?
21世紀にもなって、いまだに空気に支配され続けていくのか。
真空状態では生きられないとしても、せめて「自由な空気」を
吸うためには、われわれはいったいどうすればよいのだろうか。


そこで、無意識に理解してはいるが明示されてはいないものを
言語化するという、構造主義的な方法で空気を解読してみたい。

人間の国と空気の国

欧米のように個人が主体的に活動して社会を成す、人間の国と、
「世間」のような「場」が個人に先行している空気の国=日本と、
その文化の隔たりは、われわれの予想以上に大きなものがある。
以前知り合いがアメリカに行ったのだが、空気を読む習慣はなく、
こちらの感覚で言うとかなり「押さない」といけないという。


安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)
また以前に見た「安心社会」とは、結局安心できる空気を求めている。
信頼できる個人を見つける、ではなくて、安心できる「場所」なのだ。


「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)
中島義道は、そのような問題に人一倍敏感で、上記の本を書いている。
「やさしさ」や「おもいやり」として表象される日本的な母性は、
本人の明示的意思を確認せずに、あるいは表明自体を押しつぶして、
周囲が空気を読むことでがんじがらめにしてしまい、結果としては、
日本人に主体性だとか積極性が欠如してしまうという問題をもたらす。
無責任の構造によって莫大な借金を抱えた、現在の視点で見てみると、
お上に従うというのも空気を読む体質の一部で、意外と深刻な問題だ。


あの有名な酒鬼薔薇聖斗の「透明な存在」も、
今まで述べてきた構造と関連があるだろう。*2

空気と音

また中島は交通機関のアナウンスなどの「管理放送」に反対している。*3
もちろん中島は秋葉原のような喧騒地域には耐えられない。
また呉智英が防災テスト放送の中止を求めて裁判を起こし(一審は棄却)、
編集者の塩山芳明も自身のサイトで騒音問題を取り上げている。*4


偏屈な「世間的な空気」を嫌う人間は、「音」の侵入に耐えられない。
これは偶然ではない。エヴァのシンジがステレオヘッドホンを
しているところを思い出そう。音は波動だから壁を通り抜けるが、
そのことで、個人を越えるトランスパーソナルな領域の暗喩になる。


例えば赤ん坊が(単に伝達する必要以上の音量で)泣き叫ぶのも、
暴走族が爆音を立てるのも、パチンコ屋が喧騒に包まれているのも、
実用的に必須だからではなく、他者との連帯感のようなものを示す。


社会・文化論からはやや脱線するが、逆に萌え論に近づくので触れておくと、
映画などの演出における無音は、それまでのシーンの文脈=空気を取り去り、
リアルなもの(死など)が接近していることを表現する常套手段ではないか。
あるいはSF映画では、日常聞かないような特殊効果音で文脈を「異化」する。


われわれも日常でそのような演出を自然に用いている。例えば、二人以上で
食事をするとき、テレビをつけっぱなしにするのは、空気を軽くするためだ。
(いや、一人でも静寂に耐えられずつけっぱなしにすることはあるだろう)
あるいは、他者自体を「空気のような存在」にしてしまう。この存在は、
長年連れ添った夫婦がそう呼ばれるように、「阿吽の呼吸」で異物感がない。


更に言えば、コンサートと美術館の対比を見ればよい。
音は空気の振動の伝播だから全体に響くが、視線は個人のものである。
ハイデガーの「声」やラカンの「まなざし」に発展させることもできるが、
ここはあくまで空気論なので、本題に戻ることにしよう。

空気の壁

そろそろ本格的にメスを入れよう。まず空気に関する言葉を整理する。
空気(気体)を読むとは、他者の期待を察することだ。予測でもよい。
「空気が良い・悪い」とは、良い期待・悪い期待が醸造されている事。
「空気が重い」とは、主体の行動に対して働く空気抵抗のことだろう。
「空気を乱す」とは、各人の期待の安定均衡状態を乱すことであろう。


また主体性がないと、「空気に押されて」「空気に流されて」しまう。
より具体的な表現に、「風を読む」「追い風」「向かい風」がある。
いわゆる「斜に構える」態度とは、向かい風を進む方法かもしれない。*5


職場や学校では普通に接していても、
もっとプライベートな場所で会うと
空気が違うという経験はあるだろう。
「場所」が期待の文脈を作るからだ。


人間と空気の関係は、主体と環境の関係と同じなのだが、
環境に対して働きかけるということがまだ分かりにくい。


そこで前述の中島から例を引こう。彼は大学の授業で
私語をなくす、最も明快な方法を提案し実行している。
学生を名指しして私語をやめるよう言うというものだ。
これは学生全体という空気に対して喋るのではなくて、
個と個の関係として接する、という大きな転換である。
(もちろん教師と生徒という上下関係ではあるのだが)
人と人を隔てる空気の壁の方が「バカの壁」より厚い。*6

空気と権力

権力の予期理論―了解を媒介にした作動形式
上記は宮台真司の書だが、唯一コギャルもサブカルも関係ない、
バリッとした学術書である。題名通り権力を予期という観点で捉える。
今まで述べたように、空気を読むことは期待や予測と関係がある。


権力というと大袈裟に聞こえるかもしれないが、そうではないのだ。
というのは、戦時中の軍部のように、空気が暴走することがある。
日本は独裁者の代わりに、空気が独裁していると言えるかもしれない。


権力というと、水戸黄門の悪代官のように、権力者がいて、
被権力者はそれに操られるという図式を思い浮かべがちだ。
しかし上記の書では意図のない非人称的な権力が発生する
ことがあることが述べられている。予期的な権力である。*7


どういうことか。例えば何かの感想文のようなものを書いていて、
これが内申書などに影響するのではないかなどと予測すると、
出題者の意図に関わらず、自主的に検閲してしまうだろう。
そういうときに、出題者が「これは点数に関係ないです」などと
明言すると、予測の必要がなくなり余計な権力状態は回避される。
例えば手術のときに執刀医に謝礼が必要かという場面では重大だ。


偽日記アーカイブ 04/02/12(木)
この権力論は、北田暁大の「責任」論などに発展するだろう。
上記の記事では、その辺りの問題群が上手く整理されている。
だがここではあまり深入りせず、より操作的な話に向かおう。


空気を破るには、一般に自分の意図を明らかにしてしまうとよい。
だがそれならなぜ、みなそうしないのか。例えば賭け事においては
ポーカーフェイスで意図を隠すように、隠蔽にも利益があるからだ。
この構造がどうなっているかに関しては次の節で更に深く考えよう。

空気と約束

戦略的思考の技術―ゲーム理論を実践する (中公新書)
日和見的な空気の読み合い、腹の探り合いを破るのは
「コミットメント」(明示的約束)である。例えば「予約」もそうだ。


例えばゲームソフトの発売日に、列に人が並んでない
から何となく買わない、中古の相場を見てから買う、
などというその場の空気によって売上げが変わっては、
メーカーはたまらないだろう。そこで予約する者には
限定特典をつけたりして、売上げを確保するわけだ。
特典を与える代わりに、発売日近くになってから急に、
他の有名なソフトが発売される、というリスクも避ける。


しかもさらに、美少女ゲームの内部において、
幼いときの「約束」としてコミットメントが
あるのは非常に興味深い。現実での読み合い
に疲れたゲーマーは虚構に約束の地を求める。


基本的にコミットメントは、非ゼロサムゲームに用いる。
例えばジャンケンで自分の出す手を約束することはしない。
敵対する企業に戦略を明かしたりもしない(企業秘密)。
しかし、協力する関係では、約束することは重要だ。
手の内腹の内を明かしておくことで、疑心暗鬼に陥らない。
また味方と敵が両方いる状態で、思い切って全てを明らかにする、
オープンソース的な戦略が台頭してきているのは面白い。


「コミットメント」の伝達の問題は、
シグナリング」の問題になるだろう。
これは、空気を動かそうとする行為が、
非言語的コミュニケーションでなされる
ことと関係があるだろう。最初に挙げた
「言論の予測市場」での可視化の問題だ。


また空気がどう変わるか分からないときに、
事前に「根回し」しておくのは常套手段だ。
地下に根を張れば空気も関係ないだろう。
これは「ロックイン」の問題かもしれない。
何かデファクトスタンダードのようなものを
設定してしまうと、空気に流されない。

おわりに

空気とは期待(気体)であり、日本は空気を読むことが基本にある。
しかし、協力関係では意図を明かすことで、権力状態を回避できる。
オープンソースからカミングアウトまで、このようなガラス張りが、
かえって自由になるというのは、パノプティコンの裏返しで面白い。


最後に、ネットにも少しだけ触れておくことにしよう。
明示/非明示の対立はモヒカン族ムラ社会のそれだ。
匿名集団は空気を醸造する。世論の空気は代表である。
2ちゃんねるなどの名無しも、独自の空気を形成する。


「煽り」というのは、実は空気を煽っているのである。
名無しは個人を特定できない集団的な主体なのだから、
空気の扇動にきわめて向いているのは、必然的だろう。
それは遠く電子投票による直接民主制にまで影響する。


「正しい議論」という幻想
ここでは触れないが、たぶん、メタ議論の問題も絡むだろう。
一般的には権力側の人間が意図を明かすと権力を回避できる。
しかし執刀医の謝礼の例で言うと、突然「謝礼はいらない」
などと言っても、かえって謝礼を要求されているように患者
が解釈してしまうかもしれない。それは病院の廊下の張り紙
にしても事情は一緒だ。この強制的なメタレベルの読み込み
があるために、われわれが思うよりも事態は厄介なのである。

*1:「場の空気」を読む技術 などはあるが、ここでは文化から見た空気論を述べる

*2:透明な存在の不透明な悪意

*3:うるさい日本の私 (新潮文庫) 他、各著書で触れられている

*4:http://www.linkclub.or.jp/~mangaya/souon.html

*5:http://www.e.kaiyodai.ac.jp/FacMT/column/hashimoto/hashimoto05.htm

*6:だがあの「バカの壁」も内部予測という点では共通する

*7:フーコーのミクロ権力観とも関係がある