交換的/集団的

比較論


菊と刀』の罪の文化=西洋・恥の文化=日本という図式が、
即ち西洋の個人主義と日本の集団主義と読まれることは多い。
しかしここで山岸俊男の「信頼」に関する研究を見てみよう。
山岸は日本的な「安心」と個人に対する「信頼」を区別する。


信頼の構造: こころと社会の進化ゲーム
安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)
信頼の時代を語る。山岸俊男さんの研究を学ぼう。

日本人は社会に存在するしがらみから
解き放たれると、本当に協力をしない。
システムで縛られる時にのみ、協力をします。


日本人は集団主義ではなかった! 一旦集団を離れると個人主義に戻るのだ。
「滅私奉公」の一方「旅の恥はかき捨て」の尊大な態度もこれで理解できる。
「他人に迷惑を〜」の他人は他者ではなく、阿部謹也的な世間の他人なのだ。
外国に行ったときの異邦人は本当の他者なので、恥を全く感じないのである。
ここから、社会問題に関して面白い考察ができそうだが、AIの話に戻ろう。


複数的なAIは進化ゲームや遺伝的アルゴリズムでも実現できるだろうが、
ここではさらに、交換の導入と最初の集団の話を結びつけて考えてみよう。
交換ではすぐに価値が分からないものがある。例えば種や卵・ヒヨコ等は、
将来食べられるかどうかがすぐには分からない。だから信用が必要になる。
信用の形成には時間が必要だ。その時間を先取りするのが集団なのである。


ゲーム理論で言えば、第三者の調停による囚人のジレンマの回避だとか、
契約不履行が罰せられるコミットメントなどの話題に関連するのだろう。
しかしここで日本の話に戻ろう。なぜ日本的な恥の文化が生まれたのか。
それは島国でわりと均一な成員だから、世間的な方が効率的なのだろう。
しかし終身雇用などの安心システムが崩壊したいまでは、信頼が必要だ。


最後にもう少しだけ考えよう。上記のように、一般に時間と信用は比例する。
交換したものの価値の確認に時間が掛かる場合、集団での信用が必要になる。
逆に言えばクリエイターの創作物は表面がすべてなので、社員化はされない。
(締切などで信用の問題はあるし、ジャンプの囲い込みがあるが詳細は省く)


だが信用の問題を置いたまま組織の成員が極端に流動化するような場合には、
「偽装」などのフェイクが淘汰されない割合が高くなるのではないだろうか。
本来、交換と集団は車の両輪だが、現在の日本は交換性だけが強まっている。
それは信用の失墜と見えない不安という形で、拡散し充満するかもしれない。


ちなみに蛇足だが、上のような考察をAIゲームに生かすなら、
成員がある程度入れ替わって、なおかつ種やタマゴのような
何が出るのか分からないものを交換させると面白そうである。
あるいは例えばローグ系RPGにおける匿名アイテムだとか。