「国の借金 1000兆円」は、だれがどう返すのか?

概要

 よく、「国の借金が1000兆円」などと話題になります。しかしネットでは、「家庭内で借金しているようなものだから、返す必要がない」「むしろ、政府が国民に借りているのだ」「本来は国民の貯金や資産と言うべきだ」という意見もあります。これは本当なのでしょうか?

 そこで、「国の借金」というのは、そもそもだれがだれに借りていて、どうやって返す借金なのか、説明していきましょう。

主張

 まず断っておくと、「国の借金」に何をどこまで含めるかで、借金の額が変わるので、議論の余地はあります。国債だけで約1000兆円というのは、2022年に達するという推計ではあります。が、政府短期証券なども含めると、2012年末ですでに1000兆円近くあります。

 しかし、この記事のテーマは「だれが払うか」で、借金額の正確な算出が目的ではありません。「1000兆円」とか「ひとりあたり780万円」という言い方は、分かりやすくするための目安だと考えてください。単純な論点への反論なので、単純化した議論をします。

国債とは国の発行する債券です。

http://www.mof.go.jp/jgbs/summary/kokusai.html

国債は、国が発行し、利子及び元本の支払(償還)を行う債券です。

http://www.mof.go.jp/faq/jgbs/04aa.htm

 借金をしている国自身はどう説明しているのか。財務省のサイトを見てみましょう。それを見れば、「国の借金」に公債が含まれるのは確かなようです。

 国債は政府が発行する債券なのだから、日本政府が借り手なのは分かります。国債の所有者が貸し手なのも分かります。では、所有者は具体的にだれでしょうか?

 そこで、日本銀行が公開している資料*1を見ると、貸し手のほとんどが国内の金融機関です。

 たとえば、日本銀行、ゆうちょ銀行、その他の銀行、保険機関、年金機関などです。ただし、海外8%、個人2.5%の保有もあります。

 まとめると、「国の借金」が国債を指すとするなら、政府が国債の所有者に対して借りている債務のことです。現時点での主な所有者は国内の金融機関です。つまり、国が銀行などに借りています。

 そして、国債は法律*2に基づいて政府の財源となるので、国民が税金で払う義務を負います。

 したがって、実質的に国民の借金です。国の借金は国民の借金です。

 約1000兆円を1億2千7百万人で割れば、ひとりあたり約780万円。国民が銀行にひとりあたり780万円のローンを借りているようなものです。4人家族なら3120万円。住宅ローンが一軒分増えるくらいありますね。

 もちろん、国民ひとりひとりの課税額が違うので、実際の負担額は個々で違います。Aさんは500万円かもしれませんし、Bさんは1000万円かもしれません。また、耳をそろえて返すのではなく、返済は何十年にもわたることでしょう。歳出カット、増税、インフレ、と払い方もさまざまです。

 しかしともあれ、最終的に国民全体でそれだけお金を払うのは確実です。国の借金が1000兆円というのは、国民ひとりあたり780万円の借金があるということです。マスコミが伝えている通りの意味です。借金は借金です。

 まとめて、この記事のメインとなる主張を立てておきましょう。

主張:「国の借金」(国債などの公債)は、いかなる形であれ最終的には確実に国民が払う。よって、国の借金とは実質的に国民の借金である。国の借金が1000兆円なら、国民ひとりあたり約780万円の借金を抱えている。

(仮想)反論

 このテーゼに「当たり前じゃないか」とか「やっぱりそうだったのか」と思う人がいれば、「そんなはずはない」と反応する人もいると思います。後者の人に対して、ありそうな論点を想定して答えていきます。

反論:国の財政(国債)は破綻しない。

 国債が破綻しなかったのならば、約束通り支払われているはずです。これは先の主張に対する反論になりえません。

反論:逆に、政府が借金を踏み倒して、銀行に押し付ければいい。

 国債が破綻したのならば、銀行単体の資産では足りないので、銀行に預けている国民の預金で払うことになるでしょう。では、銀行に貯金がない人は問題ない? いや、年金や保険の機関も国債を買っていますから、国債を破綻させたら年金や保険も連動して破綻するでしょう。

 なお、ここでの論点は、破綻するかどうかではありません。破綻しようがしまいが、いつか払うものは払われるということです。

反論:「国の借金」とは政府の借金であって、国民の借金ではない。むしろ国民の貯金である。

 政府の借金は国民の借金でもあります。ただし、個人で国債を所有する国民がいます。この約3%分は貯金でもあると言えるでしょう*3

 しかし少なくとも、国債を持たない個人に債権の支払いはありません。97%の国債は、国民にとって貯金ではなく借金です。払うだけで、もらえません。

反論:
 国家の財政は個人の家計とは違う。「国の借金」はほとんど国内で消化されている。すると、国の借金は貯金でもあるから、国全体ではプラスマイナスゼロになる。

 これは家庭内の借金のようなものだ。あるいは、国民がひとりの場合を想定しよう。彼は国債の借り手であり貸し手でもあるので、ポケットの左右で国債と日銀券を移し替えるだけで、借金は帳消しになる。

 海外保有の8%をのぞき、92%は国全体で相殺されるというのはそうです。しかし、金融機関はプラスでも、個人の国民はマイナスです。つまり、均等に配分されません。

 家庭内で借りたお金は、国全体で相殺されます。しかし、消費者金融に借りても相殺されます。家庭と違って消費者金融に対して、借りた個人の視点では「借金は貯金でもある」とはなりません。払うだけで、もらえません。

 また、国民がひとりならたしかに帳消しになりますが、ふたりなら国債を多く持つほうの貯金であり、少ないほうの借金です。それを強制的に移し替えるのなら、たとえふたりでも財産没収であり破綻です。「国民ひとり」を前提にしたこのたとえ話は、子供だましのトリックではないですか。

反論:銀行は国民から預金という形で借金している。だから、「国民→政府→銀行→国民」という形でグルッと一周まわって、国債はパーになる。

 国債と預金は別です。国債を回収したときに、銀行から国民へは支払われません。銀行のところで止まります。金額の帳尻を合わせているだけであって、又貸しで連動しているわけではありません。780万円以上の預金がある個人は、プラスが残るというだけの話です。

反論:国全体の資産が何百兆、何千兆円とあるから、埋蔵金を支払いにあてればよい。

 「国全体の資産」については、じつにいろいろな額が提示されています。しかし、ネットで期待されているほどはありません。なぜか? まず、資産と負債を見合いにすると、額は少なくなります。

 国の資産のうち土地や建物などの場合は、額面通りに売れるか疑問です。またたとえば、道路や河川のように売りにくい資産があります。だから、現金化できる国の資産では足りないでしょう。

反論:足りないにしろ、支払いにあてれば、債務残高は減るだろう。

 もちろん減るでしょうが、そもそも政府の資産は国民の税金によって買われているはずです。だから、ひとりあたり780万円払うことに変わりありません。払った国民が過去世代ではありますが、将来的に資産の買い戻しが必要な場合は同じです。

反論:じゃあ、その国有の道路や河川なんかを有料化して、自動車や船舶から通行料を取ればいいじゃないか。あと建物をレンタルするとか。

 もし、建物や道や川を有料化したら、それは一種の税金です。商品コストに転化され、消費税のように作用するでしょう。

反論:国債の1000兆円に対応する1000兆円分の資産がないと、バランスシート的におかしい。そして、国債という負債が増えるほど、対応する資産も増えていくのだ。だから、どんどん増やせばいい。

 資産と負債が釣り合うのは、会計上の約束事に過ぎません。

 建設国債の場合、道路や橋がありますが、こういう建築物の多くは建設費の値段で売却できないでしょう。たとえば、これは国債ではなく年金の運用ですが、「グリーンピア」は建てるのに2000億円かかっても、売るのは50億円でした。

 赤字国債の場合、福祉や医療のサービスなど、ヒトに使われた分は回収できません。「臓器を売れ」などという取り立てでは困ります。将来の歳出カットでも債務を減らすことはできますが、結局は歳出カット分の税金で払っています。

 政府の国債残高と国民の金融資産も、べつに釣り合っているわけではなく、両者の差はどんどん近づいています。これから高齢者が預金を崩して生活費に使っていけば、国民の貯蓄はもっと減っていくでしょう。そして、国債を増やすことで国民の貯金も増えたりはしません。

反論:国家は永続的なので、借り換えによって支払いを先送りすればいい。

 国家が永続的だとすると、いくら先送りしても、必ず将来の世代が払うことになります。そうだとしても、100年も先送りすれば、少なくとも自分の代では払わなくても済むでしょうか?

 しかし、これは利払いのことをすっかり忘れています。現在の水準なら毎年10兆円の国債の利払いが生じます。元本の1000兆円は残ったままでも、100年で1000兆円を利息という形で支払うので同じです。この利息は国民ではなく、国債の所有者がもらいます。

 もちろん、100年というスパンに対して、これはいくらなんでも単純すぎる話です。今は低金利ですが、金利が上がれば利息はもっと増えます。10年後に利払いが20兆円に膨らんでいるという試算もあるようです。

反論:国(日銀)は通貨を発行できる。いざとなったらどんどん万札を刷ればよい。打ち出の小槌があるので、いくら借金しても困らない。

 カネを刷っただけでは、対応する商品=モノが増えません。モノに対してカネが多いので、カネの価値が下がっていきます。すなわち、通貨の発行が増えるとインフレになります。

 単純に考えて、インフレで物価を倍にして、借金の1000兆円を実質500兆円分に目減りさせたとします。しかし、国民の現金や貯金が1000兆円あったとすると、これも500兆円分に目減りします。しかももし、1200兆円なら600兆円が減ります。

 つまり、国がお金を刷っても、インフレ税という形で、結局は国民が払います。インフレ税ならタンス預金からでも、資産移転という形で取れるのです。

 タダより高いものはなし。経済にフリーランチ(ただ飯)なし。借金帳消しの上手い話はありません。あれば無税国家が実現できます。借金を作っておいて、だれも払わなくて済む方法などありえません。破綻でも税金でもインフレでも、必ずだれかがツケを払います。

反論:借金の額だけに注目しても意味がない。家計と違って国家経済レベルでの借金は「悪」ではない。100年前の明治の時代は、国家予算も国債も「億」の単位だった。貨幣単位と歩調を合わせて国債が増え続けるのは、歴史上の必然である。

 たしかに、借金の額「だけ」に注目しても意味はありませんが、GDPや国家予算など他の指数との比や年代比較、国際比較に注目することは意味があります。それが悪化していれば借金が増えている、という当たり前の事実は変わりません。

反論:インフレになれば好況になるので、税収増で払えばよい。

 インフレになるかどうか、好況になるかどうかはともかく、「だれが払うか」というテーマにおいては、税収で払うなら国民が払うことに変わりありません。収入になるはずだった分を払っています。増分で実質的に相殺しようという話であって、払わなくて済むわけではありません。

反論:海外に移住すれば関係ない。

 たしかに移住者にはあまり関係ないですが、海外に出て取れない人の分は国内から取るので、残った国民全体の負担は変わりません。ひとりあたりの額は780万円より増えますが、総額は変わりません。

 ところで、大企業や富裕層が海外に資産転移すると、今まで「日本全体ではプラスマイナスゼロ」としてきた論点が崩れてしまいます。これからは、海外に出るほど資産がない国内の人間が払い、その富が海外に流出していくというだけの話です。

反論:借金を認めて誰が得するんだよ! 悪いのは政治家(官僚/学者/銀行/富裕層/外国/……)だ!
 そんな風に財政危機論に誘導するとは、消費税増税財務省/反リフレ/反アベノミクス/……)の工作員だろう! 

 消費税を増税するとかしないとか、リフレやアベノミクスを支持するかどうか、といったことはこの記事のテーマではありません。増税しようとしまいと、歳出カットしようとしまいと、どの党や政治家を選ぼうと、借金のツケはいつか必ず払われるということがテーマです。

 それ以前に、国の借金が1000兆円あるとはどういう事態なのか、という基本的なことを押さえなければ、議論の前提が成立しないと思いました。

 また、検索によく引っかかる質問掲示板や掲示板のまとめブログでは、上の「反論」で示したような主張をよく見かけました。そこで、人々の将来リスクの見積もりを見誤らせるのではないかと思い、この記事を書いたのです。

 もし、払わなくてもいいと楽観的に考えていた人にはショックかもしれませんが、現実から目をそむけたら、積み上がった借金が消えてしまうわけでもありません。ツケを押し付けてきた政治を変える力も生まれません。

 結論として、大多数の国民にとって「国の借金」とは、文字通りの借金にほかなりません。

*1:資金循環 :日本銀行 Bank of Japan 2012年第4四半期の資金循環統計による。ただし、これは政府短期証券も含んでいる

*2:財政法や特例公債法

*3:また、銀行のような法人も「国民」と表現するなら貯金ですが

「Evernote」で挫折しない、普通の人のための使い方

「Evernote」日本公式サイト

概要

 登録者が1200万人を超え、そのうち約3割が日本ユーザ*1だという人気沸騰の情報管理サービス「Evernote」(エバーノート)。しかし、とても多機能で便利な反面、挫折者が多いサービスだと言われています。そこで、普通の人が挫折しない利用法を考えましょう。

紹介

PIECE of PEACE TOKYO レゴで作った世界遺産展Part2 ウェストミンスター宮殿_03
(By ajari)

 エバーノートを、さいきん私も使いはじめました。なぜ使っているかというと、「情報の箱庭を作れる」ところに魅力を感じるからです。自分好みにカスタマイズできる自由度の高さがあります。私は箱庭萌えですから、すぐハマりました。

 アナログでたとえれば、「書斎」の魅力でしょうか。そこには「プライベートな空間にひたる享楽」があります。対象がなんであれ、理想の自己を映した縮図に見えるとき、人は享楽を感じます。多機能で便利なソフト(パッケージ)は他にもありますが、書斎感がありません。たとえば、マイクロソフトの「オフィス(One Note)」は、書斎というより「事務所」です。

 それでは具体的に、エバーノートで何ができるのしょうか。基本はテキストベースです。「ノート」という単位でリッチテキストを作成し、スケジュールでもアイディアメモでも、自分に関する情報を書き込みます。そして、分類するためのタグを付け、「ノートブック」というフォルダに格納していきます。しかしもちろん、それだけではありません。

 ローカルPCのクライアント、サービスのアカウント、メール、スマートフォンと入力手段が豊富で、外出時にも書き込めます。画像やPDFを閲覧できたり、エクスポートできたり、ウェブで公開できたりと、出力手段も多彩です。また、全文検索をはじめ、タグの絞り込みや期間指定など、検索手段が多いので取り出しやすい。そして、ローカルとサーバで同期して、自動バックアップが取れます。

 そのように記録すると何が良いかというと、エバーノートが「第二の脳」と呼ばれるように、「記憶しなくてはいけないプレッシャー」から解放してくれます。忘れてもいいというのは、想像以上にストレスフリーなんです。

 ほかにも、日本法人があるくらいなので、日本語で利用できるのはもちろんのこと、日本語のドキュメントも充実しています。また、解説書が何十冊も出ています。さらに、「ツイエバ」や「hatebte」など、他サービスと連携できる外部サービスが出そろっています。このように利用環境が整備されているため、海外のサービスでも始めるハードルは低くなっています。

挫折

Evernoteに「挫折」するのはなぜなのか - nanapi Web

Evernote」(エバーノート)は、「挫折者」が多いサービスだ。

Evernoteはなぜ「挫折者」を生むのだろうか。(……)記者が最も納得したのが、「理想と現実のギャップが大きい」という意見だった。

 しかし、エバーノートで「挫折」する人も少なくないようです。そこで、エバーノートにおける「理想と現実のギャップ」、そして挫折の克服法について考えます。

 私がエバーノートを使ってみたところ、「すべてを記憶する」だとか「情報を一元化する」といったスローガンに反して、じつはストックではなくフロー向きだと感じました。「第二の脳」というのも、わりとキャッシュ的に捉えています。

 つまり、エバーノートの理想はストック指向でも、現実はフロー向きで、その解離が挫折者を生んでいると考えます。比較すれば、たとえば「ツイッター」には、こうした解離が相対的に少ないと思います。140万字の小説を書くことを、運営側も利用側も想定していないですから。

 なぜ、エバーノートはストックよりフロー向きなのでしょうか。それは、スペシャリストではなくジェネラリストだからです。大量で専門的な仕事は、スペシャリストに任せたほうがはかどるのです。エバーノートだけでなんでもやろうとすると、「部下に任せられなくて、仕事を抱えすぎて忙しい中間管理職」みたいになります。管理するのが仕事なのに、自分が管理できなくなります。

 より具体的に言います。エバーノートは多機能ではありますが、個々の機能は高性能ではありません。どの機能ひとつとっても、専用ソフトのほうが優れています。たとえば、テキストを書くという基本的な機能からして、テキストエディタのほうが書きやすい。リッチテキストより、プレーンテキストで書きたいから。ToDoリストにしても、GTDツールのほうが、リマインダーがあったりして本格的です。

 ほかにも、PDFならPDFビューア、画像なら画像ビューア、音声なら再生プレイヤー、検索ならGREP検索ソフト、パスワード管理なら管理ソフト、同期や共有ならストレージサービス……と、あらゆる分野で専用ソフトのほうが性能的に勝ります。しかし、エバーノートは参謀的な役割なので、一騎打ちで勝つ必要はありません。

克服

セブン-イレブン岐阜三田洞店 7-ELEVEN in Gifu
(By Yuya Tamai)

 分かりやすいよう、イメージで説明します。エバーノートがフロー向きだと言ったのは、たとえれば「コンビニエンスストア」的に使えるということです。コンビニは「万能」ではなくても「便利」なのです。便利さとは、すぐに必要なものがひと通りそろう手軽さです。品ぞろえで、書店や文房具店などの専門店に勝つ必要などないのです。

 あるいは、マンガ喫茶にレストランなみの食事や、ホテルなみの宿泊施設は必要ないのです。それを目指すと、かえって中途半端に高くて使いづらいサービスになってしまいます。美味しいところだけつまんで、良いとこ取りで勝負すればいいのです。


Man cave office
(By Yasuhiko Ito)

 私が目指すのは、データの量は少なくてもよく整理され、重要なものがすぐ使える「小さな書斎」なのです。本棚に収まらない本は床に積まずに、部屋から追い出しましょう。書斎=エバーノートと、書庫=はてなブックマークや応接間=ツイッターは、別でもおかしくありません。書斎の快適さを守るには、整理と使い分けが必要です。

 というと面倒そうですが、逆に言えば書斎だけキレイにしておけば、家=PC全体は多少散らかっていても大丈夫です。よく使うものが集められているからです。「集中と選択」です。


PhoTones Works #253
(By PhoTones_TAKUMA)

 書斎として使うには、とりあえずでなんでも放り込んではいけません。玄関から来た荷物をそのまま入れていくと、「大きな物置」になってしまいます。物置を書斎として使おうとすると、数多くの目印(ノートブック、タグ)が必要になります。そこには、ささやかな箱庭づくりで遊ぶ余裕はもはやなく、棚おろしやピッキングのような「作業」になってしまいます。だから、挫折しやすいのです。

 だから私は、ToDoリストなどのGTDツールや、アイディアメモ、ショートカットキー一覧、資料にするWebリンク集、PDF形式のマニュアル、壁紙的な観賞用の画像(この辺が書斎的な遊び)など、よく見るものに絞り込んで置いています。複数のソフトやサービスでも、似たようなことはできるでしょうが、エバーノートで済ませたほうが手軽です。

 挫折しないために必要なのは、ノウハウではありません。ビジョンなのです。エバーノートはコンビニだと思って使えばたいへん便利です。逆に、「大規模ショッピングセンター」をひとりで構築しようとするのは、無理とは言いませんが大変そうです。足りないものは、専門店=専用ソフトでそろえればいいでしょう。

大きな管理 VS 小さな管理


  • 大きな管理
    • 最大幸福を指向(すべてを入れる)
    • 連携サービスで入力を自動化する
    • データを削除せず、増えるに任せる
  • 小さな管理
    • 最小不幸を指向(必ず取り出せる)
    • 手動で厳選して入力する
    • 不要なデータはつねに消す

 たとえだけでなく理論化しますと、「大きな管理」に対する「小さな管理」という概念を提唱しているわけです。大きな管理が一元的な環境に包摂する「コロニー」を指向するのに対して、小さな管理は多元的な環境を横断する「コモン」を指向します。

 大きな管理から見ていきます。はてブのホットエントリに入ったエバーノートの先行記事は、どれもライフログ的用法を勧めるので、削除することを想定していません。

 すると、データが際限なく増えるため、ノートブックやタグの分類が細分化していくか、未分類で溜まって取り出しにくくなっていきます。最初は「ストレスフリー」の環境づくりや時間短縮が目的だったはずなのに、動作が重くなることもあって利用に時間が掛かります。

 多様な連携サービスが使えるのはいいことですが、必須ではありません。自動化で省けるのは入力の手間だけです。あとでデータを分類したり検索するコストはむしろ増えます。じつは、「自動化すると手間が増える」という逆説的な罠が潜んでいたのです。

 対する、小さな管理を実現するのに、難しいことはありません。使いこなせるデータ数に制限すれば、肥大化しないから細分化もしません。入力の時点で厳選して入れます。そして、ノート数が一定の数を超えたら、不要なものから消していくだけです。入力時にデータをコピーで入れると、元が他に残っているので、心理的に消しやすいです。

 より具体的には、使用しなくなったノートは、「Inbox」に対する「Outbox」というノートブックに入れて、作成日か更新日が古い順に、確認して消していきます。Inboxに入れたぶんだけOutboxで消して、ノート数を一定に保ちます。コンビニの棚に賞味期限切れの食品を置かないようなものです。

 小さな管理では、データの量より質(S/N比)を重視します。大量のデータを扱うのは、専門のソフトに任せます。エバーノートは「赤魔道士」なので、育てすぎないほうが、かえって使いやすいです。そして、一元化しなくても、集約化で管理できます。たとえばエバーノートに、Webサイトのサイトマップのように、フォルダの一覧(ショートカット)を書いておけば困りません。

 ノートは増やすより減らすほうが難しい。なぜなら、削除は自動化できないからです。かりに自動化すると、重要な情報も消してしまいます。だから、人間が消すしかありませんが、せっかく溜まったデータを削除するのには抵抗があります。もったいないと感じるから、心理的に難しいのです。有料で使っているなら、容量を使い切りたいだろうし。

 この増加と減少の非対称性があるため、データが増えていくと、使う側の人間がついていけずに挫折するのです。そもそも、無限に増やすことは、どだい不可能なんです。「10万件」という仕様の上限が待ちかまえているからです*2

 データは後からでも増やせるので、まだデータが増えていない後発の利用者は有利です。物置を整理して書斎に使うのは大変ですが、書斎を物置化するのは容易です。だから、これからエバーノートを使うなら、小さい管理から入ることをオススメします。

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そもそも「はてブボタン」の何が問題だったのか、普通の人に分かる言葉で説明する

概要

そもそも、何が問題だったのか?

 しかし、そもそも何が問題だったのでしょうか? セキュリティ関連の専門家である高木浩光氏がコメントしているので、一部を引用します。

三者cookieを用いたアドネットワークがオプトアウト方式で許容されたのは、当該アドネットワークに参加する(広告を貼る)Webサイトが、その事実を利用者にプライバシーポリシーで示してオプトアウト手段を案内していることが要件。その前提がないと全てのURLを盗むスパイウェアと等価。

https://twitter.com/#!/HiromitsuTakagi/status/177935707602550785

特に悪質なのは、仕掛けなしの当該ボタンが広範に普及した頃合いを見計らって、後からトラッキングの仕掛けを注入してきたこと。まさに騙し討ち。悪質極まりない。 .js 埋め込みパーツが突如マルウェア化する危険性を体現している。

https://twitter.com/#!/HiromitsuTakagi/status/178146151344783360

 これは、後に近藤社長が、見解で同じ話題に触れました。両者の認識が共通しています。というより、批判と釈明という感じですが。

 当初はこうした行動情報の提供を行わない仕組みで提供開始したボタンを、途中から仕様を変更した点や、仕様変更の際に、事前に十分な告知を行わなかった点も間違っていました。ウェブサイトの閲覧者が、はてなブックマークボタンが設置されたページを訪問した際に、行動情報を取得されないよう設定が簡単にできるオプトアウト機能を準備しなかった点も誤りでした。

http://hatena.g.hatena.ne.jp/hatena/20120313/1331629384

 よって、これが今回の最大の問題点だと考えます。しかし、ITやWebが人工的な環境のため、なぜそれが問題なのかということすら、専門家や技術者以外には、とても分かりにくい。私自身も、リサーチしたことで、認識を改めた部分がかなりありました。

 ネットでの反応を見るに、一般的なユーザとの間で、何が悪いかのイメージが食い違っています。そこで、図解と比喩を使って、分かりやすく説明しましょう。資料をあさっていて出遅れたので、すでに飽きられていて、読者の興味がなくなっているかもしれませんが……。

仕様の事後的変更の問題

はてなブックマークボタン」とは


▲上画像の赤枠部の青いボタンが「はてなブックマークボタン」

 まず、問題となった「はてなブックマークボタン」(以下、「はてブボタン」)を確認します。はてなが運営している、URLやコメントをアーカイブするためのWebサービスです。ニュースサイトなどで設置されるのを見たことがあるかと思います。冒頭の記事にあるように、すでに第三者への送信を中止しています。

 ちなみに、このブログにも設置している緑枠のボタンは、今回の件とは関係ありません。また、運営のコメントによると、アドオンやツールバーのブックマークボタンは、アクセスログのみで、その情報が第三者に提供されることはないとのことです。

クリティカルな問題はなにか


▲問題の中心は「事後問題」

 いろいろな論点はあるでしょうが、問題の重要度を整理します。最大の問題は「明示的な再同意を得ない、仕様の実質的な事後的変更と、規約の遡及的適用」(以下、「事後問題」)でしょう。問題色の濃さを示すと、個人的な主観が入っていますが、クロ、もしくは濃いグレーです。

 なぜ、それが最も問題なのかが、非常に分かりにくいと思いますが、追って説明します。ここではさしあたり、冒頭のようにセキュリティの専門家が指摘しているから、という説明に留めておきましょう。

 ソーシャルボタンでトラッキングする、というのは薄いグレーです。ソーシャルボタン本来の目的から、かけ離れている仕様ではあります。グーグル(+1)やフェイスブック(いいね!)のボタンのように、アクセスログのみ取得するならシロになります。

 なぜ、トラッキングよりアクセスログのほうが、セキュリティ的に問題が少ないのでしょうか。それは、前者が継続的な情報の取得で、後者が一時的なものだからです。つまり、アクセスは一回の接触ですが、トラッキングは一定のあいだ追跡されるのです。これは大ざっぱな話で、技術的な補足はたくさんありますが、本筋から脱線するので、細かいことは注に飛ばします*1

 はてなドメイン下でのサービスについてはシロになります。はてなだけでなく第三者のトラッキングも、プライバシーポリシーに記載されているので問題ありません*2。これはユーザの感覚に反すると思いますが、少なくとも制度上の問題はありません。

 ただし、ユーザがプライバシーを求めることが、間違っているというわけでもありません(そういう誘導も散見しますが)。ユーザにはサービスを選ぶ自由があります(他のメジャーサービスでもやっていますが)。セキュアな環境を自力で構築する道もあります(大変でしょうが)。行政に規制の強化を求めることもできます(それが望ましいとは限りませんが)。

 セキュリティはデリケートな問題で、発言する立場によって、バイアスが入りやすいので、慎重な言い方になっています。消費者と事業者との間で、自由と秩序のバランスを取る必要があります。しかし、一般的なセキュリティの議論が目的ではありません。一般的な行動情報の取り扱いの問題については、次回の記事にゆずりましょう。

どこで問題になったのか


はてなの外にあるサイトで問題となる

 別の視点で見ますと、はてなのプライバシーポリシーが適用されるサービスについては、この記事で問題にしません。はてブボタンを設置する外部サイトが舞台になります。

 こうして問題を少しずつ絞り込んでいきます。今回の問題に詳しい方には「いまさら感」があるかもしれません。また、そうでない方は「問題に対する重大感」のズレを感じるかと思います。しかし、ズレを埋めることが目的ですから、あえて前提や過程を飛ばさずに説明したいと思います。

本来の処理はなにか


▲本来必要な処理の通信は問題ない

 問題ない時点の動作も押さえておきます。たとえば、ブックマークするときには記録するため、はてなが用意したサーバと、ユーザのPC間で通信します。どんな実装なのかは知りませんが、たとえば記事のURLやタグを含めたコメントなどを、おそらくやり取りしているでしょう*3。また、ボタンを表示するときは、画像を呼んでいます。

 このレベルでの通信は、どんなサービスでも行なっていることですし、完全に正当な処理です。ふつうにWebサイトを見るだけでも、必ず通信しているのです。当たり前ですが、通信していなければ、そもそも見られません。それはたとえれば、手紙を出せば相手に届くとか、電話を掛ければ相手に聞こえるとか、そのレベルの話です。

問題が起きる境界


▲トラッキングや第三者送信そのものは問題ない

 それに加えて、今までのはてブボタンでは、販売契約を結んだ第三者(具体的には、マイクロアド社)へ、トラッキングした行動情報を送信していました。

 というと、「情報流出」的なイメージがあるかと思います。しかしじつは、プライバシーポリシーの提示と、オプトアウト版の提供、といった主な要件を満たせば、制度上は問題ありません*4

 問題ない、というのが直感に反すると思います。さしあたり、個人情報と行動情報は別で、行動情報だから認められている、とカンタンに説明しておきます。前者は個人が特定される情報で、「個人情報保護法」で保護されます。後者はそうではありません*5

 今回の件は、個人情報の漏洩が問題になっているのではありません。行動情報にもいろいろリスクはあるのですが、少なくとも、個人情報そのものが流出したと、問題視されているのではありません。この区別は確認しておきます。

 また、「ソーシャルボタンでトラッキングすること」の是非はあると思いますが、ここでそれを議論するつもりはありません。コマ送りで少しずつズラして、どこの時点で問題が発生するのか、普通の人に分かるように確認することが目的です。そして、次が最も問題です。

問題となる事後的な仕様変更


送信先の第三者の存在がユーザから隠されている

 冒頭の指摘にあったように、今回の件では、事後的な仕様変更をしていて、このことが問題なのです。パーツを配布して広まってから、「javascript」ファイルの動作を変えて、情報送信していたというのが大問題なのです

 なぜかといえば、情報を送信している事実が、ユーザから確認できないからです。それに、はてブボタンを設置している、外部サイトのプライバシーポリシーとも矛盾をきたしてしまいます。

 意図しない送信が行われるのだから、送信がどのような内容であれ、結果的にスパイウェア化してしまいます。個人情報の漏洩がなくても、「スパイウェア」と呼ばれるのは仕方ありません

 そして、外部サイトに配布するというのは、スパイウェアをバラまく、ということになってしまいます。外部サイトだから、はてなのアクセスを超えて情報を取得でき、そのことが収益性につながるのだと思いますが、大きな問題を抱えています。

 ここで、広くバラまいた後から、オプトアウト版を提供するのでは遅いのです。なぜなら、ユーザ側からは、どのサイトがオプトアウト版に変えたのか、ひとつひとつ判断することなど、現実的に不可能でしょう。ひとたび事後問題で汚染されると、すべてのはてブボタンが、信用できなくなってしまいます

 だから、近藤社長が、収益源のひとつを絶つことになっても、根本から送信を止める、という判断を下したことは支持します。もちろん、もともと問題が起きないことが望ましいし、すでに送信した情報の扱いなど、まだ課題も残っています。いろいろ批判はできますが、それでも送信を中止したこと自体は支持します。送信の中止なくして、信頼の回復はありえませんから。これは、たんにはてなだけの問題でなく、ほかのITサービスも含めた話です。

事後問題のたとえ話

スパイウェア

 さて、ここまで読んでも、まだボンヤリとしか、話が見えてこないかもしれません。そこで、ここから対話形式でたとえ話をして、さらに問題を分かりやすくしましょう。

 ――事後問題がいけないことは、なんとなく分かる。けど、どうしてそれが大問題なのか、いまいちピンと来ないな。なんだか、はぐらかされている気がする。情報の取得や、第三者への送信、いわゆる情報流出が最大の問題であって、あとはオマケみたいなものだと感じるんだけど? ようするに、スパイウェアを作っていたから、悪いんじゃないの?

 いや、事後の仕様変化、規約の遡及適用によって、スパイウェア「化」したのです。たとえ、通信内容そのものが無害であろうとも。

 ――言っていることの意味が、サッパリ分からない。何がどう違うの?

 ……これはたとえ話ですが、たとえば、フリーソフトフリーゲームを利用していて、とつぜん料金を請求したらダメですよね?

 ――そりゃもちろん、サギだと思うよ。事前に価格を表示しないと。「基本プレイ無料」だとか、途中からの有料化にしろ、ここからが無料で、ここからが有料と示して、選べる形でなければダメだろう。でも、今回の件で請求は関係ないよね。

 では、オフラインで動作するはずのソフトウェアが、ある日とつぜんパソコンの情報を収集して、送信し始めたらどうですか? それを収益にしているという。

 ――それは、スパイウェアそのものだよ。有害な通信をしているんだから。そんなソフトがアンチウィルスやアンチスパイ、ファイアーウォールに引っ掛かったら、危なくて使えないに決まっている。それが、今回の件と同じということかな? それってやっぱり、情報の流出が問題じゃないの?

 それならたとえば、ゲームで修正パッチを適用したら、情報を送信するように変わっていたらどうですか。その修正に関する告知は全くなくて。その通信内容が、ゲームのスコアだとか無害な情報なんだけど、結果的にゲームが面白くなり、売れて収益が増えるだとか。

 ――そんなの、ユーザからは通信内容が分からないのだから、スパイウェアとして扱われても仕様がないよ。そんな危なっかしいことでは、安心して使えない。かりに、提供側がイヤな理由があるのだとしても、コソコソせず正々堂々と告知しないと。

 ……それが、ここまで説明してきた「スパイウェア化」の問題です。

 ――なるほど……、そうか……!

 より正確に言うと、今回の件で言えば、はてなはゲームメーカの立場ではなく、各メーカに開発素材・部品を提供する、外注的な立場になります。ゲームメーカに相当するのは外部サイトです。はてなから知らされず、ユーザに仕様変更を告知できないため、自分のサイトが強制的にスパイウェア化させられます。結果的に、外部サイトは「加害者『化』の被害者」になってしまいました。*6

信用問題

 ――事後に変えると問題だということが、はっきり分かったよ。

 少なくとも、信用問題、企業倫理上の問題があると思います。これが個人レベルなら、そういうやり方が通るかもしれませんが、少なくとも法人のサービスであれば、問題視されるのは当然だと思います。これがもし上場企業なら、株主への責任も生じるし。ただ、直接に金銭的な被害が生じず、Webサービスが通信から切り離せないため、一般の人に分かりにくい形になっています。

 ――じゃあ、全く実害はなくて、純粋な信用問題だけだと言いたいの? べつに行動情報くらい気にしない、という人もいるけど。

 いや……、そこは微妙なところです。いろいろな問題が、潜在的に発生してしまいました。しかし、それらを断定することは難しいので、コメントを控えておきます。

 ――なんだか、思ったほど大したことないのに騒いでいた、という気もしてくる。……というか、批判の目をそらす工作をしようとするために、そう思わせているんじゃないの?

 いいえ。むしろ、事後問題が、思ったより大したことだったのです。これが妥当な比喩かどうかは分かりませんが、食品や建築などにたとえれば、「偽装問題」と言えるかもしれません。一般層へのこの問題提起が目的です。

 ――ああー。たしかに、毒ではなくても、偽装していたら問題になるよね。IT界の偽装問題だったんだ。

 通信が見えないものだから、分かりにくいけれど、信用という点では通じると思います。

問題の対策

 ――こういう問題に対して、専門知識がない普通の人は何もできないの?

 ユーザレベルの視点で言えば、プライバシーポリシーの提示と、オプトアウト(拒否の手段)の提供、という二点は確保される必要があります。そうした情報と選択の権利を求めることに、意味はあると思います。

 ――今回みたいな問題が起きないようなルールはないの?

 「JIAA(インターネット広告推進協議会)」のガイドラインがあります。はてな運営は、そのガイドラインを「遵守」していると説明していました。しかし、冒頭で紹介した高木氏は、抵触する可能性があると指摘しています。また、通るようなら抜け穴なので、ガイドライン自体が見直されるべきだ、とも主張しています。私もガイドラインをいちおう読みましたが、専門家に任せて、ここでは触れないことにします。

 ――ちょっと待てよ。じつは逆に、ルールやそれを変えるほうが間違っている、という可能性はないの?

 日本での話に直接は関係ないのですが、JIAAもガイドラインを作成するにあたり参考にしていた「FTC(米連邦取引委員会)」が、行動ターゲティング広告に関するガイドラインを示しています。そこで、プライバシーポリシーが遡及的に変更される、実質的な運用の変更が生じた場合は、再同意を得るべきだという原則を示しています。ガイドラインには、運用上の補足的な意見もあるのですが、脱線するので省きます。

 ――なんか、また分かりにくいな。

 ええと……、話がやや飛躍しますが、近代刑法に事後法の禁止があるので、普遍的な規則なのだと思います。要するに、後から変えられるルールには意味がないのです。

 ――ようは「後出しジャンケン」の禁止なんだな。

次回への予告的な問題提起

 ――後出しだとダメなことは分かった。そこまではいい。けど、逆に言えば、後出しでなければ通る、というのなら納得できない。ジャンケンとは違って、情報流出はそれ自体が有害なんじゃないの? それに、はてな以外のメジャーなサービスでも、すでに同じような手法が広まっているらしいね。そんなことでいいの?

 それは、説明するとまた長くなります。もし、読者の需要があるようなら、次の記事で解説する予定です。また、この記事に事実関係の誤認がありましたら、ご指摘ください。

関連記事

*1:たとえば、アクセスログIPアドレスを解析することで、トラッキングすることも技術的には可能です。が、可変IPアドレスの利用者が多いため、一般的にはクッキーを用いてトラッキングします

*2:はてなプライバシーポリシー「(8)第三者のトラッキングシステム」

*3:というか、しています。はてなブックマークの公開APIを利用して、自動ブクマするボットを以前作ったので

*4:たとえば、「Google Adsense」や「Google analytics」が、トラッキングしています。しかし、次の事後問題がないため、今回のように問題視されていないのです

*5:ただし、正確に言うと、前者と後者が結合されうる問題、後者から前者を特定されうる問題などはあります。が、そうした話題に触れるのは、次回にしたいと思います

*6:この段落は、コメント欄での指摘を受けて、追加しました

はてブのトラッキング問題で、はてなはアドバンテージを失った

概要

はてブのトラッキング問題とは?

 そもそも、問題の所在が分かりにくいので、はじめにカンタンにご説明します。

 半年前くらいから、Webサービスはてなブックマークボタン」は、「ターゲティング(対象を絞った)広告」のために、「トラッキング(行動履歴の取得)」をしているようです。

 具体的には、ユーザがブラウザで閲覧したページの履歴などの情報を、「マイクロアド」がクッキーで取得しているらしいです。というとわれわれは、「セキュリティの問題は生じないのだろうか?」という疑問が湧いてきます。

 下記リンクを見ますと、個人を特定する情報(生年月日、メールアドレスなど)は収集しておらず、「JIAA(インターネット広告推進協議会)」のガイドラインを守っている(ため、問題ない)、とはてな側は説明しています。

 しかし、セキュリティの専門家である高木浩光氏らが問題視したため、はてブやはてダなど、はてな内部のコミュニティでも話題になっています。そこで、この記事で私もコメントするわけです。

 ちなみに、他サービスでは、アクセス解析ツール「忍者ツールズ」も、マイクロアドのトラッキングがされていると指摘されています。より詳しい説明、トラッキングの回避策については、下記のリンクをご覧ください。

感想

はてなはアドバンテージを失った

 トラッキングに関する技術的な問題は、専門家たちに任せるとして、はてなのユーザとして大ざっぱな感想を述べたいと思います。

 かりに、はてなが説明するように、セキュリティ上の実害がないとしても、ユーザとしては面白くありません。それはなぜか。

 たとえば、はてなダイアリーでは「Javascript」が禁止されています。このため、他のブログでは使えるのに、はてダではブログパーツが使えなかったりします。

 やはり技術的な詳細は省きますが、抜け道はあるようです。たとえば、ブログパーツに「Google Gadgets」を入れて、そこを経由して実行するとか。しかし、もしできるとしても、規約などで別の問題も生じそうだし、なによりコソコソする時点で不満です。他のブログなら、たんにコピペして使えるのだから。

はてなダイアリーXSS対策 - はてなダイアリーのヘルプ

 なぜ、Javascriptが禁止されているかといえば、「XSS対策」というセキュリティ上の理由から、という説明がなされています(上記リンク参照)。

 今までわれわれは、この説明でそれなりに納得していました。はてなでは、ユーザの自由度は制限される。けれどそのかわり、セキュリティの安全性が保証されているのだと。

 ところが、今回のトラッキング問題で、運営がみずから情報を渡していることが明らかになりました。それは、「公認されたセキュリティ・ホール」だとは言えないでしょうか。

 そして、運営が公式にやることは、ユーザ全員が対象になるわけだから、穴の中でも最大の穴です。そうしてセキュリティの大義名分を捨てては、ユーザには不自由さだけが残ります。

 トラッキングが収益目的なのは分かりやすいですが、Javascriptの禁止が間接的にマネタイズにつながっている面もあるでしょう。

 なぜなら、「Google Adsense」といった広告を、独占的に掲載できるからです。それも、規約のレベルではなく、動作のレベルで。トラッキングの開始と同時期に、「Google Adsense」の掲載が始まっています(上記リンク参照)。ユーザに還元されるのは「Amazon アソシエイト」のほうだけで、アドセンスのほうの収益は運営に入ります。

はてなが上場目指しCFOを公募、年収最大1200万円 4社がサイトで幹部募集 - ITmedia ニュース

 このように、はてながマネタイズに走るのは、上場を目指しているからでしょう(上記リンク参照)。しかし、ユーザ側にはメリットが感じられません。セキュリティの信頼性が消えて、不自由さは残るというのでは、他サービスに対するはてなのアドバンテージは失われます。

新はてなダイアリーの裏側

 もっとも、やはり去年末にオープンした「はてなブログ」では、XSS対策のためサブドメイン制にしたことで、Javascriptが使用できるようになりました。そのかわりトラッキングも行われているようです。それでも、他のブログサービスなら最初からJavascriptが使えるから、やはりトラッキングの問題がまるまる残って不満です。

 そこで私は、ささやかな消極的抗議(ストライキ)として、自分のはてなブックマーク数を減らしていきます。サブアカウントの「ama2」と「moe2」、合わせて約8千をすでに消去しました。どうせボットでブクマしたものなので。

 メインアカウントの「sirouto2」は、アウトポート/インポート機能を利用して、コメントだけ全消去しました。あとは、情報の整理をかねて、手動で細々と消していくつもりです。

 はてなが、アメリカのIT企業を指向するのはいいのですが、「evil」な部分はマネして欲しくないと思います。

追記・補足

 要するに、マスオさん風に一言でまとめると、「えぇ〜! それじゃ、はてなはユーザにJavascriptを禁止しておいて、自分で情報を渡しているのかい?」と言いたいのです。

 ただ、他サービスのユーザはもちろん、はてなユーザでも分かりにくいところがあると思うので、補足説明します。

 現在、このブログで表示している「↑B」は、「はてなブックマークボタン」ではありません。「この記事を含むブックマークアイコン」です。こちらはトラッキングしていないので大丈夫です。

 そして、上のオプトアウト版ボタンは、外部サービス用なので、はてなダイアリーのユーザは選べません。管理画面の「設定」→「記事の設定」→「記事共有ボタン」→「はてなブックマークボタンを表示」の部分のチェックを外して、使用を止めることはできます。

 しかし、はてなブックマークを利用していれば、外部サイトでブックマークするだろうから、結局は関係してきます。しかも、ブックマークボタンからブックマークしなくても、それを設置したサイトが表示された時点で、情報が取得されています。そして、ほかのソーシャルボタンのサービスでは、アクセスログは残っても、トラッキングまではされていないのです。

 だから、消極的な形であれ、反発しているのです。

追記2・運営側が声明を発表しました

 この記事を書いたちょうど翌日、はてなの運営が声明を発表しました。それによると、「行動情報の第三者提供」を中止したとのことです。私はもちろん、この対応を支持いたします。

追記3・新記事

幽霊とは何か

概要

 幽霊とは何か。幽霊とそれ以外の怪物との違いや、なぜ幽霊は若い女性の姿で描かれるかを、考察していく。

考察

幽霊とは何か

妖怪談義 (講談社学術文庫)

妖怪談義 (講談社学術文庫)

 誰にも気のつくようなかなり明瞭な差別が、オバケと幽霊との間にはあったのである。第一に前者は、出現する場処がたいていは定まっていた。(……)第二には化け物は相手をえらばず、(……)一方はただこれぞと思う者だけに思い知らせようとする。(……)
柳田國男『妖怪談義』より)

 まず、柳田國男にならって、幽霊と怪物(オバケ、化け物、妖怪)の区別を導入しよう。上記では、出現場所と相手が特定しているかどうかで、幽霊とオバケを区別した。ちなみに、柳田はこの他にも、出現時刻の違いを挙げている。

 それを踏まえつつ、私はさらにシンプルに考え、幽霊と怪物の区別を、精神と物質に求める。たとえば、ゾンビは、精神性が感じられない一方で、肉体を有しているので、怪物に分類する。

 幽霊は、デカルトのコギトを体現したような存在だ。幽霊は、思う(恨む)ゆえに、存在するのである。いっぽう、ゾンビは、思考しているかどうか怪しい。よって、以下のように大きく分類できる。

  • 人間−身体=幽霊*1
  • 人間−精神=ゾンビ

 もっとも、ゾンビの表現も多様で、思考を有しているように、ときおり描かれることもある。それならそれで、幽霊とゾンビを別にせず、ファンタジーでよくある「不死族」のように、ひとくくりにしても別に構わない。いまは、幽霊と幽霊以外の分類を細分化することより、幽霊の特徴を追求しよう。

疎外された他者の回帰した姿

 小説や映画などのメディアで描かれる幽霊は、若い女の姿をしていることが多い。古くは『四谷怪談』や『番町皿屋敷』がそうだし、現代でも『リング』の貞子がそうだ。若い女性のつぎには、子供や老人が多い。

 これは、中年女性や男では絵にならないから、という単純な理由も大きいだろう。しかし、男が幽霊に出る場合を想定すると、それだけではないことが分かる。たとえば、平将門や、もっと一般的に、平家の怨霊を考えてみればよい。彼らは歴史的敗者だ。すると、どうなるか。

 ようするに、幽霊は「疎外された他者の回帰した姿」なのである。女の幽霊が多いのは、男社会だからなのだ。女の中でも若いほうへの偏りについては、男社会の好みが反映しているからだろう。また、子供や老人など、周縁的な存在が幽霊として表現される。

 恐怖とは未知のものに対する感情だから、その共同体にとって未知である他者は、恐怖の対象として描きやすい。

 だがここで、その他者像は伝統的なものであって、現代の社会を反映しているとは限らない。たとえば、近年の自殺者の多くを中年男性が占めているが、彼らは幽霊譚の中に語る場所を持たないのだ。

 さらに言えば、外国人労働者が増えたからといっても、それは幽霊譚に反映されない*2。幽霊像=他者像はあくまで、リアルな社会の実態ではなく、社会の成員のイメージを反映したもの*3なのだ。

都市伝説

 だがここで、「都市伝説」という、比較的新しいジャンルに目を向けてみよう。やはりそこでも、「トイレの花子さん」「口裂け女」など、若い女性のイメージが多い。だが、外国や最近のものに関する伝説も語られている。

 これは、都市伝説というジャンルが、伝統的な幽霊譚が取りこぼしているもの*4をすくい上げているからだ。

 たとえば、「ひきこさん」などという都市伝説は、これもやはり若い女性のイメージを脱していないものの、「ひきこもり」という最近できた概念の影響が露骨に見られるだろう。

 女性、子供、老人の抑圧に関して、だれでもある程度は共感可能だろう。共感とは精神性を感じることだから、精神体である幽霊となって出てくる。しかし、より他者性が高いものは、精神体としても想像しにくい。そこで、都市伝説として描かれるのだ。

関連書籍

幽霊を捕まえようとした科学者たち (文春文庫)

幽霊を捕まえようとした科学者たち (文春文庫)

幽霊学入門 (ハンドブック・シリーズ)

幽霊学入門 (ハンドブック・シリーズ)

日本の幽霊 (中公文庫BIBLIO)

日本の幽霊 (中公文庫BIBLIO)

*1:この逆として、幽霊に肉体を与えて、一時的に人間に戻すのが「憑依」という操作だ

*2:天狗は外国人のイメージから来ているのではないか、といったように伝統的な妖怪像の中にないわけではないが

*3:アニメ『エクセルサーガ』で、外国人労働者・ペドロの幽霊が出てくるのは、このイメージのズレを逆手にとって、コメディを描くのに利用している

*4:いっぽう、「人面犬」などは江戸時代から伝わっているので、伝統的な面が全くないわけでもないが

ホラーとホラーサスペンスの違い

概要

 ホラーとホラーサスペンスには、どのような違いがあるのか?

考察

ホラーとサスペンスの違い

 まず、ホラーとサスペンスの違いから見てみよう。文字通り、ホラーとは恐怖であり、サスペンスとは(展開の)宙吊りだ。

 単純な例として、ある部屋を想定しよう。たとえば、そこから脱出できなくなり、悪霊に殺されるというのが主題ならホラーだ。いっぽう、幽霊が出ずに、閉じこめられた部屋から脱出できるかどうか、というのが主題ならサスペンスだ。

 ここで注意しておくと、こうしたジャンル分類は、生物学的な分類ではない。魚でもあり鳥でもあるというのはなくても、カツとカレーが両方載ったカツカレーはある。じっさい、ホラーサスペンスがあるし、SFミステリもあるだろう。つまり、ジャンル分類は、フォルダの区分ではなく、タグの区別なのだ。

 また、ホラーとサスペンスの境界があいまいで、自然と重なる部分があることは否めない。部屋の例で言えば、悪霊に殺される場合でも、助かるかどうかというサスペンスがある。部屋から脱出する場合でも、危険があるかもしれないというホラーがある。そのように重なってしまうのは、読者側には先の展開が分からないからだ。

 だが、シチュエーションの繰り返しによって、両者を分離することもできる。悪霊が殺害を繰り返し、部屋からは逃げられず確実に殺される、という規則が示されれば、ホラーに傾いていく。逆に、脱出劇を繰り返して、脱出できるという規則が示されれば、サスペンスに傾いていく。

ホラーとホラーサスペンスの違い

 (超自然的な)恐怖があるのがホラー、展開が宙吊りになっているのがサスペンス。そして、その両方の要素を兼ね備えているのがホラーサスペンスだ。部屋の例で言えば、悪霊に迫られながら、部屋から脱出するという展開になる。

 シチュエーションの繰り返しによって、ホラーかサスペンスに分離させず、ホラーサスペンス性を維持することも可能だ。ごく単純な例では、屋敷に10人閉じこめられたとして、順番にひとりづつ死亡していけばホラー、ひとりづつ脱出していけばサスペンス、半分が死亡して半分が脱出すればホラーサスペンス、と分けられる。

 しかし、ここで注意しておきたいが、人物の生死はひとつの要素でしかない。実際の作品では、ストーリーだけでなく、演技や演出など、多様な要素が関わってくる。誰も死ななくても悪霊ホラーが、全員死亡しても脱出サスペンスが成立しうるだろう。ジャンルの本質とは、読者が作品から読み取る規則なのだ。

 Jホラー映画から具体的に示せば、『呪怨』(シリーズ)がホラー、(初代)『リング』がホラーサスペンス、と私は分類している。というのも、『呪怨』シリーズでは伽椰子の呪いから逃げられた例があまり見あたらない。それに対して『リング』では、貞子の呪いから逃がれられるかどうか、というサスペンスが軸になっているからだ。

ジャンルの意義

 もちろん、ホラーとホラーサスペンスは隣り合っているから、分類にあいまいなところが残る。分類自体に固執する必要はない。だがそれでも、作者があるジャンルを志向して、読者や視聴者に示すことは重要なのだ。

 ふたたび、部屋に閉じこめられる例を使おう。その作品の前半で、暗証番号を入力する金庫、暗号が書かれたノート、工具類などを描写したとする。そうすれば読者は、それらを駆使した謎解き、サスペンスの展開を期待するだろう。

 しかし、そうしておいて、後半では謎解きの前に幽霊に殺され、前半の描写がすべてブラフになったとしたらどうか。納得できないという読者が出てくるのではないだろうか。とくに意図がなければ、怪しい物音や人影の幻覚など、ホラーを期待させる描写を最初からしておいたほうが無難だろう。

 ジャンルの拘束というのは、作者側にしてみれば、不自由な「かせ」ではある。ホラーなら怖さだとか、ジャンルによって要求が決まっており、それを外すと不評を呼ぶのだから。ただその一方で、制約が工夫を生む面もある。なんでもありの世界では、なにも驚きがない。

 人間がテレポートできるSF世界や、空を飛べるファンタジー世界で、人影が瞬間移動したり宙に浮いていたりしても怖くない。それが怖いのは、読者がホラーとして見ているからなのだ*1

関連書籍

ホラー映画大全集 (スクリーン・デラックス)

ホラー映画大全集 (スクリーン・デラックス)

*1:もちろん、SFホラーやホラーファンタジーはあるが、それは「ホラー」と付くだけあって、やはりホラーの要素を持っているのだ

ホラーをカレーにたとえると

概要

 ホラージャンルのコンテンツにおいて、「恐怖」とは、いったいどのようなものか? イメージしやすいよう、「ホラーの怖さ」を「カレーの辛さ」にたとえて説明しよう。

考察

ホラー=カレー論

 一般的に、カレーは辛い。激甘カレーというのは、かなり特殊なカレーだ。それよりは激辛カレーのほうが需要があるだろうが、万人向けではない。しかし、カレーが辛いものだからといって、ただ辛ければいい、というものでもないだろう。

 ホラーも同様だ。ホラーが怖いものだからといって、ただ怖ければいいというものでもないだろう。「辛いカレー=怖いホラー」と「美味いカレー=面白いホラー」とでは違う。

 もちろん、激辛カレーのようなホラーを求める人もいるだろう。だが、多くの人にとって、「怖いホラーが見たい」という要求は、ただゴア・グロ表現の大盛りを求めているという意味ではない。面白さ(快さ)を損なわない範囲で、怖さを追求しているのだ。

 カレーの辛さを一概に決めても仕様がない。甘口から辛口まで、多様な味付けがあってよい。だが、市販のカレールーには、甘口か辛口かの表示がある。同様に、ホラーもそのような区別があると、期待外れにならずに済む。

辛さの慣れ、受容のズレ

 ホラーコンテンツにおいては、送り手側が「怖さ」を強調して、紹介・宣伝することが多い。だが、そう紹介された実際の作品を見ると、たとえばロマンス的な「切なさ」だとか、別のところに重点が置かれていることがよくある。

 いっぽう、受け手側でも、「面白いこと」が「怖い」、「怖くないこと」が「つまらない」と表現されやすい。もちろん、たんに怖くなくて、面白くもない作品も多いだろうが。

 ここでさらに、怖さの認識が層によって異なる、という問題がある。カレーを食べ続けると、辛さに慣れてしまう。同様に、ホラーを見続けると、怖さに慣れてしまう。そこで、味の嗜好にかなりの開きが出るだろう。すると、普通のカレー(ホラー)が甘口に感じる。

 食べたカレーや見たホラーの量に比例して、味が分かるようになっていくという部分はある。しかしむしろ、慣れてしまうことで、一般の感覚と離れていく部分だってあるだろう。カレーとホラーの難しさがそこにある。

ホラーの旨味=カタルシス

 辛味にばかり言及してきたが、本当はよりベースになるカレー(ホラー)の「旨味」があるのではないか。ホラー以外のジャンルでも、何らかの「旨味」はあるはずだ。たとえば、古典的なジャンルで言えば、落語のベースには人情話があり、怪談のベースには因縁話がある。

 それは現代でも変わらない。四コマ・マンガの多くはコメディだが、より根底には日常マンガというベースがある。それは、爆笑するようなものではないが、『サザエさん』や『かりあげクン』のように広く普及している。都市伝説はホラーというよりオカルトの側面が強いが、「トイレの花子さん」は広く知られているだろう。

 ホラーの旨味=面白さというのは、ジャンルの空気のようなものだが、それゆえ把握しにくいものである。私としては、悲劇に感じるカタルシスのような感覚だと考えている。一級の悲劇は、ただ悲しいというだけでなく、悲しさを超えて感動するところがある。

 ラーメンは塩味、カレーは辛味、という違いはあるが、どちらにも旨味はある。同様に、悲劇は悲しさを、ホラーは怖さを強調する違いはある。だが、世界の不条理さと、不幸な運命にある登場人物に対する共感、という部分は共通しているのではないだろうか。

関連書籍

荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論 (集英社新書)

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カレーのすべて―プロの味、プロのテクニック

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